読書感想#12 【西谷啓治】【鈴木成高】【小林秀雄】【河上徹太郎】【林房雄】【吉満義彦】「近代の超克座談会二日目・歴史ー移りゆくものと易らぬもの」
歴史から私たちが学ぶということは、例えばそれは古人の跡を求めるということではなくして、古人の求めた所を求めるということでなければなりません。仮に古人の跡を完璧に辿れたとして、おそらくその思想体系を現在に於いてもそのまま取るということは出来ないからです。一方で古人に於いても現在を生きる私たちに於いても変わらないのは、私たちがその思想を必要とする動機です。時代に応じて取るべき思想態度は変わりますが、その思想が生まれてくるその根本はどこまでいっても動きません。
もしある古人が現代に生まれて来たならば、確かにかつての思想体系とは違ったものが現代に於いて出来上がることでしょう。しかしその思想が要求される根本的なものは常に変わりません。この永久不変なものを私たちは歴史を通じて学ぶのです。もちろん古人を仰ぎ見るということ自体も一方では大事であります。しかしあくまでも現在の自分の立場に立った上で、改めて古人が求めたところを現代との闘いに於いて求めなければ、それは我々にとって意味を持たないでしょう。単に思想を受容するのではなく、むしろ思想から汲み取るということをしなければ何も始まらないのです。
過去は過去、古人がもし現代に生まれたならば現代のものがつくられます。思想は常に更新されなければなりません。しかしこれは決して古人より新しいものをつくろうという試みではありません。古人の到達し得なかった所へ到達しようというような野心をいうのではありません。それだけでは単に過去と現在とでは材料が違うからまた違ったものが出来るということに他ならないからです。確かに自分が隅から隅まで古人の内に没入し得るものならば、それでも差し支えないかも知れませんが、思うに自分というものが置かれている現実の生活から離れて昔の人の歩いた道を本当に掴むことは出来ません。昔の優れた人の歩いた道を嘘偽りなしにそのまま歩くことは出来ないのです。現代思想的にいえば、思想は反復されます。即ち時代に応じて思想もまた反復されて行くことが思想の更新なのです。
ただ他人の跡を追い回すということから離れない限り、私たちは自分にとっての解決というものを得られません。自分が現在の自分の位置にいて、自分に与えられている自分の問題というものをどうにか解決しようともがく姿勢から事態は解決されるのです。そして自分なりに自分の問題を片付けるためにもがくことが、却って古人の歩んだ足跡の発見につながるのです。もちろん個人的な解釈や理解というのが、単に歴史を自分の尺度に合わせて理解すれば良いという風潮になってしまえば、それはただの嘘の助長になってしまいますから、斯く意味で古人の跡を辿るということも重要です。しかし古人の歩いた足跡に本当に触れるためには、先ず自分で自分の道を歩いてみる必要があるでしょう。
注:(本記事の)著者は主に京都学派視点でこの座談会を読み解き、総括また再解釈をしております。なお、それは『文学界』グループや日本ロマン派に比べて、京都学派の発言や態度が最も可能性を感じるからです。
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