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読書感想#55 【今西錦司】「生物社会の論理」

出典元:生物社会の論理 今西錦司 平凡社 出版日1994/1/14

私の読み方

本書は、私のような素人が読むには少々難しい。"生態学"やら"分類学"やら"生物地理学"といった区分けや、"ウォレース"や"メリアム"などといったその界隈の学者の名前、その他諸々の専門用語や英語表記が出てくるたびに、本書の分野に知見のない私はくじけそうになります。それに300近いページ数があるものですから、そう何度も読み返す気にはなれません。眠気に打ち勝ちながら、なんとか二周はしたものの、三周目に挑む勇気はないといったところです。そのため、本書の解説は放棄して、私の一方的な解釈に徹することとします。

まず、私が本書に期待していたことは、今西錦司の思想と"京都学派"がどのように呼応するか、ということです。実際、本書を読み進めていくにあたり、「種の社会」を基礎に沿えていたり、世界の背景に一なる「生物的自然」を設定するところなど、要所要所にその節を見つけることはできました。しかし、それを持って"京都学派"と繋ぎ合わせるには、ややこじつけ感が強すぎる、というのが正直な感想です。そのため、当初とは主題を変えて、代わりに私が着眼したのは、本書における差異の捉え方です。

差異=自然淘汰説

本書では、"生態学"やら"分類学"やら"地理学"やら様々な単語が出てくるのですが、要するに「生物」について書かれた本です。そして、私が本書から掘り起こす命題は、地球には様々な種類の生物が存在するが、これらの差異が意味するところは何なのか?ということ。

この手の話でよく挙げられるのは、進化論です。たとえば、サルから進化して人間になった、という理論を取り入れることで、サルと人間との差異を説明できます。

なぜ進化したのか、これには"自然淘汰説"を用いることで、一応の答えが得られます。平たく言うと、原初の生物が環境条件に適応するために、各々に分かれていった、これによって、種は多様に分化され、上手く適応できたものは生き残り、適応できなかったものは滅ぶ、あるいは、弱い立場に置かれるのです。

この考えによると、差異は無作為に発生することになります。無作為に分化したなかから、たまたま順応できたものは生き残り、そうでないものはひっそりと消えていく。つまり、混沌とした世界、秩序のない世界です。しかし、本当にそのような考え方で良いのか、これが本書で最初の問いです。

生物がこの世界の構成要素であることは、まちがいないとして、つぎに、生物のこの世界における在り方であるが、このじつにいろいろな生物が、この世界に、あるいはこの地上に、でたらめにばらまかれているのだろうか、それともそこには、一定の秩序なり、法則なりがあるのだろうか。そういう疑問を、最初の出発点としよう。

p.12

そして、本書を通読した上での結論を先にいうと、その「一定の秩序」はたしかに存在します。昨今の潮流として、世界の背後に秩序や法則を仮定するのは嫌われる傾向にあり、混乱やカオス、虚無が受け入れられやすいのは周知の上ですが、しかしもとより、無秩序や混乱といったものは、人間の自己破壊から始まるのです。

無秩序とか混乱とかは、人間が自然を破壊したあとにこそ見うけられるのであって、ありのままな自然においては、森林であれ、草原であれ、それ自身が一つのまとまった、自然景観の要素をなしている。そういう生物のまとまったあり方が、自然における生物のほんとうのあり方であるならば、このまとまりを無視したところに、生物的自然のほんとうの記述はありえない。

p.34

差異=遷移論説

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