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楽屋落ちの話

漱石が高浜虚子に宛てた手紙で、雑誌『ほととぎす』には楽屋落の様な記事があり、これに対して「私の雑誌ならとにかくいやしくも天下を相手にする以上は二、三東京の俳友以外には分らず随って興味なき事は削られては如何」と質したことが、高浜虚子の『漱石氏と私』にある。子規は、「あまり甚だしい楽屋落は困るけれども、少し位はかえって読者にとって興味があるかもしれない。」などと言っていたそうである

この話は、ブログを発信する者が一度は心に留めて置くべきことと思われる。全くの個人的な事は読み手の興味を惹かない。子規の言う読者にとって興味があるかどうかという視点が大切だと思える。

何故、楽屋落ちの話が良くないとされるのだろうか。それは、私的なことは第三者にとって有益性が低いからだと言える。共感を求める気持ちから出ているのかもしれないが、やはり私欲なのだろう。

ただし、一概に個人的な体験でも、出来事でも第三者にとって無益とは言いきれない。無益な楽屋落ちの話から脱却するには、
①私的なことの中から普遍的なものを見い出すこと
②私人そのものが公的な価値を持つようになること
の方法があると思われる。

超有名人になると、その人の一挙手一投足が関心をもたれる。②の例では、『ほほととぎす』内の楽屋落ち話は、今となれば文学史的な価値が出てくる。

だが、通常は、自分自身の私的な出来事が読者に価値があると思うのは、かなりのうぬぼれやか無神経な人だろう。誰々の出来事だから価値があるとしても、人に依存しているため脆弱である。その人が忘れられたら、私的な出来事も消えてしまう。

だから話者は、私的な体験から第三者にも有益なものを見出し、普遍的なものに昇華させることが重要だと思われる。ニュートンがりんごが木から落ちたのを見ただけでは、楽屋落ちであり、そういう個人的な体験から一般的な法則を見い出したという話は楽屋落ちではない。旅行記もそうだろう。私がどこどこに旅行した等ということは、第三者にとって興味がないことで、興味があるのは、その土地がどういう所か、具体的な交通・宿泊施設のハウツウ、旅で知った危険等である。やはり、第三者のために話すという姿勢が大切だと思われる。

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