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餅つき 臼と杵

東京のはずれの小岩で育ったが、私の幼い頃には家で餅つきが行われていた。若かった父と大学生だった従兄が餅をついた。松戸の田舎から引っ越しと共に持ってきた臼と杵が活躍していた。29日の餅つきは、クンチ餅と言って嫌われたので、その日は行わなかった。クンチ餅という父の言葉は記憶しているが、苦につくからというゲン担ぎなのだろう。女たちはもち米を蒸したり、餅つきの相の手をしたりと小まめに動いていた。母は蒸したモチ米の入った熱々の蒸籠を持って小走りに台所から庭先まで運んだ。餅つきの景気のいい音が近所に響いていた。大きな杵が落ちる手前のスキをみて母が餅をひっくり返していた。東京の四谷生まれの母にとって餅つきは結婚してからの初めての経験だったと思う。餅つきは一家総出の一大行事だった。餅を平らに伸ばして、熱が落ちた頃に切って、
角餅にしていた。杵を持ち上げてみようとしたが子どものわたしには重たくて全く持ち上がらなかった。

従兄が独立してからは、我が家で餅つきはしなくなったが、隣のKさんの家では私の家の臼と杵を使って毎年餅つきをしていた。庭に窯を置いて蒸籠で蒸した。蒸し上がったばかりの湯気の立った餅米を臼に入れて突き出すときの手際良さはひとつの見ものだった。小父さんとお兄さんの気の合った声が聞こえた。餅つきの手際よさは、戦前まで浅草のせんべえ屋さんでせんべえを焼いていただけに気持ちのいいくらいだった。

つきたての餅を小さく丸めて黄粉や大根おろしでからめたのを毎年、御馳走になった。つきたての御餅を食べる贅沢は今ではできない貴重な体験だった。Kさん宅では、わが家のためにも毎年餅をついて持って来てくれた。

やがて、いつもまにか餅つきはしなくなり、餅菓子屋でついた餅を買うようになった。使われなくなった臼と杵は、縁側に置き去りにされていた。野ざらしの臼には、やがてひびが入り、いつのまにか壊れた。杵は柄だけが残り、木刀と化した。父がよくその柄を持って、すり足をしながら振り上げていた。柄は私が成人しても残っていた。持ってみるとずっしりとした重さだったが、振り上げて下すと柄の先がぴたっと目線の先で止まった。たしかに杵の柄は、木刀にびったしの重さだった。

2022.12.26



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