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百体観音堂さざえ堂

1 埼玉県本庄市のさざえ堂


先日、友人の案内で埼玉県本庄市にある百体観音堂に行った。土産物店や案内所を兼ねた観光農業センターでチケットを買い、石段を上がった所に観音堂はあった。振り返り見下ろすと桜がまだ咲いていた。堂に向かい行けば、左に如意輪観音像があり、先には大日如来坐像がある。堂の向かい右手には遍昭金剛空海像があった。大日如来坐像は台座に児玉郡金屋や野州佐野の鋳物師の名がある。

大日如来坐像

百体観音堂は、天明3年に起きた浅間山の大噴火により犠牲となった人の霊を弔うために建てられた。境内の説明板によると先ず火砕流と岩屑が麓の住民を襲い、更に吾妻川に流れ込むと大泥流となり吾妻川と利根川沿岸の住民を襲い、1500人の死者を出したという。平等山成身院の僧元真が利根川の岸辺に壇を築いて読経を行い、元映に百体観音造立を遺言して亡くなった。元映の奔走により、寛政4年に百体観音が揃い、7年に観音堂が建立された。噴火から12年後の事である。明治21年に焼失し、明治43年に再建されたのが現在の観音堂である。

百体観音堂の説明板

百体観音堂には、1階に秩父三十四観音、2階に坂東三十三観音、3階に西国三十三観音の合わせて百体が祀られている。右回りに3回まわりながら参拝すると3階の内陣に着く。仏教の礼法である仏の周りを右回りに3回まわりながら礼拝する右繞三匝(うにょうさんそう)による。この階段は、民家の階段のようにかなり急であった。最上階の天井には、琵琶や笛を奏でる3人の天女が描かれている。

百体観音堂は、三匝堂(さんそうどう、ささいどう)とも言われ、また、さざえの形に似ていることから、さざえ堂とも呼ばれ、一般にはこの呼び名が親しまれているようである。匝は、訓で「めぐる」である。

この堂を参拝すると、秩父三十四観音霊場、坂東三十三観音霊場、西国三十三観音霊場を巡ったことになる。信仰心はあるが実際には行くことができない人のための参拝方法なのだが、国府の六所神社に国内の神々を祀ることで国内にある神社への国司巡拝の代わりとした例や江戸時代に盛んになった各地神社に作られた富士塚等に通ずる柔軟な宗教精神が感じられてうれしい。

この本庄市児玉の百体観音堂は、三大さざえ堂のひとつとされ、他に群馬県太田市の祥寿山曹源寺、会津若松市の円通三匝堂(えんつうさんそうどう)がある。

2 江戸本所にあったさざえ堂


さざえ堂という名をどこかで聞いたような、と記憶をたどると、確か広重の江戸名所百景で見たような気がする。脳裏に五百羅漢ということばが浮かんでいる。

あとで広重の『江戸名所百景』を見ると「五百羅漢さざゐ堂」があり、本所五ツ目竪川の南(江東区大島3丁目)の天恩山五百大阿羅漢禅寺という黄檗宗の寺院の境内にあったが、安政2年の大地震で倒壊した。

江戸本所五ツ目の五百大阿羅漢禅寺のさざゐ堂

『江戸名所図会』の記載によると、このさざい堂は、正式には三匝堂(ささいどう)といい、寛保元(1741)年建立で、さざえ堂としては、早い建立である。本堂の東西に五百羅漢堂が翼を広げたように建ち、寺の西南側に3階建てのさざえ堂があった。1階に秩父三十四観音、2階に坂東三十三観音、3階に西国三十三観音が安置され、右回りに参拝して高層に至るのは、本庄のさざえ堂と同じ構造であり、江戸本所のものが「後世三匝堂を造るの規範」となったとされる。上記の成身院の僧元映も、江戸に出て勧進を行っているので、この三匝堂を見ていると思われる。

『江戸名所図会』に描かれた
五百阿羅漢寺さざい堂

この五百羅漢寺は、安政大地震やその後の災害により被災したためこの地を去り、現在、東京都目黒区下目黒に存在する。五百羅漢寺さざい堂のあった場所には、明治36年に多摩郡から祥安寺(曹洞宗)が移転して来て、その後に名称を羅漢寺に変更して現在に至っている。名称変更の理由は分からないが、浮世絵にも描かれた五百羅漢寺やさざい堂への住民の愛着が強かったからだろうと思われる。


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