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昔からの石標 国分寺へ五町

よくウォーキングをしていると道角に石標があり、どこどこまで何町(丁)と書いてある。そこで一町の知識を頭の中の引き出しから探し出さなければならないことになる。たしか一町は百メートル程の記憶があるが、尺貫法の詳細になると極めて心細い。1メートルは3尺3寸、1間(けん)は約1.8メートルあたりまではよいが、尺間町(丁)の関係になるとあやふやになる。

調べてみると、6尺が1間、60間が1町(丁)である。1町は360尺、109.09メートルになる。面積では、1間四方が一坪3.3平方メートルだということはよく知られている。1町歩は、60間四方なので3600歩(坪)、109m✕109m=11,880㎡ =0.00118k㎡、3600坪✕3.3㎡=11,880㎡になる。3000坪の豪邸のイメージが湧いてくる。なお、長さの単位は町・丁の両方が使われるが、面積の単位では町歩と書くらしい。1町歩は、律令制下では3600坪(11,880㎡)であったが、太閤検地では3000坪(9,900㎡)になり、明治時代のメートル法では3025歩になった。奇しくも、メートル法の1ヘクタールが1万㎡(100m✕100m)であり、1町歩に近似している。

奈良時代に長屋王が策定した百万町歩開墾計画は、どの位の大きさになるだろう。計算すると一町歩の百万倍は、約12,000k㎡に当たるが、これは、関東平野17,000k㎡、濃尾平野1,800k㎡、越後平野2,000k㎡からみても広大な面積である。計画成功の有無は、想像に難くない。

農業に携わていないので、1町歩も1反も生活に無縁だが、ハイキングでは、古い道標が残っているのに出くわし、今だに有効に機能していると感じている。市川市の弘法寺(ぐぼうじ)の近くの持国坂の上にある庚申塚に「国分寺 五丁」と書かれているが、地図で見ると、そこから国分寺までは確かに500メートルほどである。甲州街道高尾町の落合交差点から高尾山への登山道入口にある高尾山道石標には「是より本堂迄 本道四十四丁 ちか道三十四丁」とあり、1丁100メートルとして計算すると高尾山頂への距離感がつかめる。丸の内を散歩すれば、赤レンガ造りの三菱一号館が復原されていて、明治時代に「一丁倫敦」と言われた往時を偲ぶことができる。一丁約100mの効能である。

高尾山道石標「是より本堂迄 
本道四十四丁 ちか道三十四丁」


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