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全体と個体 トリアージの誤解から

全体と個体の関係は、人類永遠の課題と思われる。社会と個人だけでなく、種と個体の関係を見ると、それは自然界そのものが持っている永遠の課題である。例えば、配分できる資源が限られたときに如何に個体を選別するかという問題に、全体と個体の関係が極限的に浮かび上がってくる。

新型コロナが大流行を始めた時に、トリアージという言葉が誤解を持って知られた面が否めない。トリアージは緊急医療に使われる用語で、災害時に容態により、4つに区分される。すでに死亡していて、心肺蘇生を施しても蘇生の可能性が少ないレベル(黒)、直ちに治療すれば命が助かる可能性が大の最も優先的に治療するレベル(赤)、多少治療が遅れても命の危険がないレベル(黄)、外来での対応で充分か治療の必要がないレベル(緑)と色別に区分される。災害時には全ての人に多かれ少なかれ、医療の対応が必要なのだが限られた医療資源をどう使うかの課題に対して、時間的緊急性の順番で区分したもので、納得できるものだ。

トリアージが知られた時、私たちに衝撃を与えたのが、「助かる可能性」が歪曲されて伝わったことである。生命の重さに差がないはずなのに、生命力や治癒力を尺度に区分される恐怖を感じた友人がいた。コロナ感染により重症化した場合、元気な若者は助かる可能性が高く、基礎疾患のある高齢者は助かる可能性が相対的に低いと判断され、入院基準につながるという恐怖であった。

こういう優先順位は、SF小説の格好のテーマである。遭難した船から救命ボートに乗る場合、もしボートに限りがあれば誰を乗せるべきか。大海の厳しい環境に耐えうる元気な若者を優先させるべきか、か弱い幼児や老人を優先させるべきか、幼児には将来があり、老人は長生きしたので退くべきか。

地球滅亡の日にノアの方舟には、誰が乗るのかも同様の問題である。結局は、限られた資源を誰に振り分けるかという課題の中の極限課題である。人類の存続のために誰がロケットに乗るべきか。最大多数の最大幸福は通用しない。民主主義は豊かな資源があって初めて成り立つ。全体のために個体が選別される。心身とも優秀と思われている人たちを乗せるという考えが正しいのか、社会の縮図のように多様な人たちを乗せるのが本当は正しいのか、限られたDNAか多様なDNAかの問題という気もするのだが、どちらがよいのだろうか。後者については、種の多様性が叫ばれだしている現在、あながち無意味な考えではないと思われる。なぜなら多様性は宝庫を意味するからである。多様性を許容できる数量的余裕が鍵なのだろう。

こんな遠い未来のことは、想像がつかないことである。宇宙船は、AIによって操縦され、何人かの人間は冷凍保存され、多様なDNAを積んで飛び立つだけかも知れない。ただ言えるのは、結局は、人類と生物が種として存続することが第一義的な重要性であり、今生きている個体の幸福は二次的な問題だということである。


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