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広重の新大橋錦絵「おおはしあたけの夕立」

友人が古物商から買ったという2枚の絵の話をした。ひとつは牡丹の日本画で、「○園と署名があるが、何だろう」と聞いてくる。桃のように見えるが初めて見た異体字だ。東大史料編纂所が作った「電子くずし字字典データベース」で調べてみたら、はたして桃であった。作者は山田桃園という日本画家のようだ。古い文字が読めなくても、調べる基本ツールを知っていることが普遍的に有効である。先ずは知識そのものより調べ方である。

更に「広重の『大はしあたけの夕立』を買ったが、左下に『下谷魚栄』とあるが版元かね」と言う。スマホで「名所江戸百景」を検索すると、何点かこの広重の絵が表示された。しかし浮世絵の部分だけ写っていて、肝心の版元の字が見えない。次いで国立国会図書館の所蔵データベースを検索した。国立国会図書館の錦絵では下谷魚栄の名前がはっきり読み取れた。国立国会図書館の資料の扱い方は極めて公正で、資料に恣意的な価値観を入れることはしない。浮世絵の部分だけを切り取るようなことがなく、資料に対する中立性が感じられる。

国立国会図書館所蔵

せっかくの機会なので、「下谷魚栄」と「あたけ」について調べてみた。

下谷魚栄は、東叡山下谷広小路の魚屋栄吉という版元、今でいう出版社で、「名所江戸百景」は全て下谷魚栄により刊行されている。それ以外の詳細は不明。

おおはしあたけの「おおはし」は新大橋である。1693年に日本橋・深川を結ぶ新大橋が完成した。大橋と呼ばれていた両国橋に対して新大橋と名づけられた。現在の新大橋よりも下流にあり、旧新大橋跡の碑が芭蕉記念館の近くにある。

おおはしあたけの「あたけ」は、江戸初期に家光が向井将監忠勝に命じて建造させた御座船「安宅丸」(あたけまる)やその他の官船を収蔵する御船蔵が深川にあり、安宅丸が1682年に解体された後も御船蔵のある地域は「あたけ」と呼ばれていた。明治初年に船蔵を撤去して店肆を開き安宅町とした(『大日本地名辞書』吉田東伍編)。

絵を見ても隅田川のどちら側か判然としないが、宮尾しげを(浮世絵研究家)の解説によると日本橋(地名)の方から対岸の深川「あたけ」を描いたものという。すると描かれている船(筏か)は下流に向かっていて手前が右岸日本橋である。

【写真 芭蕉庵史跡展望庭園から見た新大橋】

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