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さよなら忘れられない呪縛たち

さらば全てのエヴァンゲリオン。

ということでエヴァの呪縛から無事解き放たれてきました。

前夜になって抱いた槍への気づきとかも含めて考察漁っておいてよかった〜。触れてないけどメタ視点の考察も読んでて初見にしてスルっと飲み込めたと思います。

というわけで以下はネタバレ記事です。

■厳しい大災害と優しい日常

とりあえずQで「空白の14年」からのシンジも観客も混乱に飲み込まれて流されたまま、世界がまた滅亡に近づいたような終わり方をして、その直後から始まる本編。パリのシーンは事前に公開されてて何度も見ましたが、エヴァの補修パーツを手に入れたり封印柱でコア化を解いたりと逆転の目は見えるものの、相変わらず敵方の物量は半端なくて冬月先生は将棋と同じく学者と思えないほどの戦略家だし、緊張感とプレッシャーがぶり返す展開(ていうか、劇場で見てあれって冬月先生によるヤシマ作戦の再現ってようやく気づきましたw)

そこからどうなるのかと思ったらアスカたちを迎えに来た車から降りた防護服の中から懐かしい声、そして診療所で「俺弁」

そこからのトウジの優しさと黒波のピュアさに癒されまくり。ケンスケも生きてたし底抜けに優しいし、委員長が包容力無限大のお母さんになってるし!そりゃ言葉も発せなくなってたシンちゃんも「なんでみんなこんなに優しいんだよ!」って逆ギレもしますわw優しくないのアスカだけだけど、そこだけは理解できてるシンちゃんw

アスカは終盤でシンジが「自分で決めなかった」ことを謝って許すけど、たぶん自分が使徒に侵食されたことでニアサード時の戦闘に参加できなかったことやシンジに負い目を負わせたこともずっと後悔してたし、Qでもまた結局シンジを巻き込む形で更なる負い目を負わせたと自分自身に一番イラついてたのかなぁ。

割と長い日常シーンだけどこの長さが「シンジの再起」と終盤で「何のために戦うのか」を描くために必要十分すぎて。14年をすっとばしたのと真逆の手法ですね。というか今になると14年を飛ばしたのはすごい英断で神演出だったなと思います。

絶望は一瞬で理解できるけど、日常の大切さって時間をかけて描写されないと分からないものなんだなって。

■新劇場版の構造

やっぱりループものだった!って言われてるけど、ループとはちょっと違うと思います。

旧劇を踏襲してるのが明らかなだけにそう思っちゃうんだろうけど、それを言うなら漫画版も踏襲してる。ではこれら全てがループのひとつなのか?

まずこの物語は庵野監督個人と我々の現実世界がメタ構造として存在し、その中に新劇場版の世界と物語がある。明らかにゲンドウが一矢報いたい神は庵野監督を指してたし。

ややこしいけど「やり直し」てるのは虚構世界の中にあるシンジたちの世界じゃなくて現実世界の出来事だというまさに庵野監督が「やり直している」ことを指している。

自分でもわかりにくいなとしばらく思ってたけどさっき気づいた。例えばまどマギならほむらによってループしてるしシュタゲならオカリンがループしてる。つまりループの主体と視点がどこにあるかなんだけど、それがこの場合は神である庵野監督かなと。「今回はゲンドウ」っていうのは監督が誰を中心にしてやり直してるかっていう意味ですかね。

TV版や旧劇だけじゃなくゲームやパチンコなどいろんなマルチメディアミックスをしてきた作品において「全てのエヴァンゲリオン」という言葉はそれら全てを指してるとしたらパラレル構造であるという方が飲み込みやすいかなと。まあパチンコとかは庵野さん関わってないのですが、一応おおもとの創造神ではあるわけで。

Qと同時公開された「巨神兵東京に現る」について意味がわからないって言ってる人けっこういるけど、あれって作品のストーリー性じゃなくて日本が培った特撮技術の集大成を見せるプレゼン映像でありメイキングと併せて見ないと意義がわからないものではあるんですよね(だから公開の仕方が杜撰だなと思ったw)。そして、実はずっと特撮をやりたかったというのがシンにも影響してきてるから、ラストで特撮としてエヴァ を撮影していた庵野監督のスタジオが描かれる。

「シンジの記憶の世界」と言いつつ庵野監督の記憶の世界にあるいくつものエヴァンゲリオン世界をシンジが渡り歩き、それらを補完していく人類補完計画ならぬ「庵野監督が描いてきた人類」補完計画になってるのかなと。今になって気づいたけど誰が磔にしたのかわからない人類の生みの親であるリリスって庵野監督なんでしょうね。あそこに磔にしたのは監督自身でもあるというメタ表現かもしれない知らんけど。

メタ世界の庵野秀明をいかに知ってるかで作品理解度は変わってくるかも。「全てのエヴァンゲリオン」をどれだけ知ってるかも。俺は見てないけど彼氏彼女の事情とかも結構影響あるみたいですね。

知識と費やした時間が多ければ多いほどこの作品から受ける感動は大きくなると思う。ここまで監督個人のことが内包されて作品理解に影響するコンテンツって他にないでしょうね。知らんけど。

あと映像制作に詳しい人とか仕事にしてる人はエンドロール見るだけでテンション上がると思う。アニメを超えて現在の映像技術の集大成であることが文字だけでわかるw

■作品のメッセージ

YouTubeの考察サイトさんがコメント欄でネタバレOKってしてるの画期的だなwと思ったんですが、そこのコメントやTwitterみてるとなんか作品の最終的なメッセージを真逆に捉えてる人がいるんですね。

「突き放された」「大人になって現実を見ろって言われた」というネガティブな捉え方。

俺はこれは悲しいくらいの取り違えだと思いますよ。例えばシンゴジって福島原発事故をメタファーにしてることは有名だと思うけど、庵野監督はQが公開された2012年の後2015年からシンゴジに携わって「災害から立ち上がる日本」を応援するメッセージ性のある作品にしたわけですが、そこに至る経緯は奥様(最近こう書くと怒られるんだっけ?w)である安野モヨコさんが漫画にされてます。

この漫画を見ればQの後にシンゴジで確信をえた監督がシンエヴァにネガティブなメッセージを込めるはずがないと思えるのでは。シンエヴァに描かれるトウジたちの集落は災害の中でタフに息抜き、美しい日常を大事に繰り返す人々が描かれるんですね。そしてそれを守るためにシンジはヴンダーに戻るわけで。

正直、俺も鑑賞時に本編終盤でやけに安いCGだなと思ったらCGでミニチュアセットを描いてたり映画スタジオにいたりとか明らかに違和感のある演出してて、旧劇の実写パートのトラウマがよぎりましたよ。シンジくんがカメラ目線で「今度は君の番だ」って言った時にうわ遂に第四の壁やぶってきたわオワターって思いましたよw

ちなみにこちらの記事で上記のシーンのことも含めてめちゃくちゃ高密度で濃い解説と考察を愛情込めて書かれてます。あの世界が砧で撮影されていた世界という描写だったとは。

旧劇は確実に「オタク」に対して現実を突きつけ、突き放す、絶望に満ちたエンディングだったと思う。でもそれは、あの当時の時代性や監督の実生活が反映されていたものであり、当然、今回は今の時代性と今の監督が反映されるわけです。

だから同じような手法を取りながら旧劇で取りこぼしたことをもう一度やり直したんだろうなと。

ちなみに旧劇と新劇でエンディングが逆転するほどの変化要因というと物語のなかではマリの登場、そして現実世界では監督の結婚じゃないかなって。

だからラストでアニメ、セル画、線画とシンジくんの描写が現実の方に寄っていくところにマリが現れてアニメに戻る。そしてエヴァの呪縛が解けた二人はアニメの世界で大人になって監督の故郷である宇部新川の駅にいるという。マリとシンジのカップリングで終わるって意外なエンディングだけどあれが庵野夫婦のメタファーだとしたらすごくしっくり来ます。なんなら実家に結婚の挨拶に行くんじゃないかって。

ゲンドウがユイによって変わっていく過程は安野さんに出会った庵野監督を踏襲してるようにも見えるけど、まあ声優さんたちも言ってるけど色んなところに庵野監督自身が投影されてる物語ですし。

あとマリは登場時からやたらアニメチックな個性強めのキャラと言われてたけど彼女が虚構としての世界を守る者だったのかなって思ったり。

シンジくんが大人になってる部分を「観客もいつまでも子供でいないで大人になれ」って突き放されたと捉える人がいますが、大人になったシンジの側に変わらない姿の綾波とカヲルくんがいるんですよ。それは紛れもなくアニメチックな演出であり、大人になっても側にアニメがあっていい、一緒に大人になって「行こう」ってなるんじゃないかと。

内に篭ることをやめて大人として現実を生きるシンジと現実にそうそうおらんやろっていう「良い女」のマリが手を繋いで遠ざかっていくのを見送るエンディングは現実でありながら一般にイメージされる逃避的な虚構にはするもの。「大人になって虚構から離れる」のではなく我々が庵野監督とエヴァに求めた虚構がわっても、現実がそこに地きであることを描いているようにも見えます。

「続、そして終。」「非、そして反。」を無理やり解釈するとこういうことかなと思ったり。

旧劇と新劇、虚構と現実、相補性のうねりってそういうことだったんですかリツコさん!太鼓叩いてる場合じゃないすよ!

ともあれ絶望を突きつけた父親の呪いも希望の槍で解いてるんだから希望に満ち溢れたハッピーエンドですよ。

■全てのキャラクターに

全てのエヴァンゲリオンに決着をつけながら、全てのキャラクターにも希望のある結末を描いたんじゃないかなと。

加持さんやミサトさんは命を落としているけど、それは未来に希望を繋ぐため自分の責務を果たしたと納得のうえのものだし。

荒木先生もこのように仰られていますしw

正直よくネタにもされてるミサトさんの「大人のキス」って俺大嫌いなんですよね。

テレビ版ってテレ東系列だったものでうちの地元では劇場版にあわせて97年に放送されてるんですが、そのエンディングで???ってなってシト新生みて杜撰な制作体制丸出しのものに金取られて「二度と見るか!」ってなってAir/まごころはずっと見てなかったんです。で、見た方がいいって散々いわれて20代半ばのタイミングで見たと思うんですが比較的ミサトさんに近い年齢で見ると保護者として側においていた14歳の少年にあんなことするのちゃんとした大人のすることじゃないでしょって思いました。というか旧劇は全ての人物がちゃんとしてなくて、そこに絶望があるわけで。

だから新劇のミサトさんがたしかにいびつな親子関係ではあるけど、それはあの悲惨な世界の中での帰結であり、最後は保護者としてシンジくんを見送り、母として息子たちの世界を守るために命を賭すのは素直にかっこいいと思えたし。総員退艦の後に「私は艦と運命を共にする」っていつ言うのか待ってたけど、あの最後のセリフは泣くしかなかった…。リツコさんが迷わずゲンドウに鉛玉ぶちこむのとかも「やったれ!」ってなったw

ずーっと可哀想な目にばっかりあってたアスカもヴンダーでシンジへの気持ちにケジメをつけたつもりになりつつ、「あの海岸」で28歳の姿で照れるのとかケンスケと落ち着くとか色んな意味で呪いから解放されたんだなと。

ちなみにQのED曲である「桜流し」の歌詞ってあの時点では作品との関係性がなんか違和感あったけど「空白の14年」の間のアスカからシンジへの気持ちとして読むとめちゃくちゃ腑に落ちますね。まああの時点で宇多田ヒカルがその辺知ってるとは思えないけど。結構毎回、誰にでも当てはまりそうな絶妙な余白のある歌詞ですからね。

エヴァを最初から見ていた観客がシンジの年代からゲンドウの世代になってるのに合わせて「ゲンドウの願い」が補完計画の要になるのも面白かったですが、それもあって今回のED曲であるOne Last Kissとダ・カーポverとして流れたBeautiful worldはゲンドウのことを歌ってるのかなと思ってたらOne Last Kissはマリの歌じゃないかってのを見ました。うわ。マジでそっちの方がエモいw

というか貞本版のコミックで出てきたマリの話すっかり忘れてたんですが、マリはユイが好きだったんですよね。そしてユイに髪を直してもらうシーンがある。これってシンでアスカの髪を切ってるシーンにもなんだか被る。

■ユイがお母さんとしてしたこと

Beautiful worldがゲンドウの歌だとしても彼の視点だとしたら変なんですよね。自分で自分のことBeautiful Boyって言ってたらキモすぎるしw

でも、ユイの視点だったらとふと思いました。学生時代とはいえ成人してるゲンドウにBoyはキツイきもするけどwでもゲンドウとシンジのダブルミーニングだとしたら?

ユイはなんのためにダイレクトエントリーなんてことをしたのか。あの時点で人類がエヴァを作ってるってことは人類補完計画のことを知ってたんだと思うけど、何より彼女が「かわいい人」と思いその性根を理解しているゲンドウが息子であるシンジへの接し方が分からなくなってることの方が気がかりだったとしたら。ミサトさんのように「お母さんにできること」を彼女が選択したのだとしたら。

なんだか鶏が先か卵が先かみたいな話になるけど、綾波・式波シリーズはなんでシンジに好意を持つようにプログラムされてるのか。

ユイが初号機の中にいなければシンジはエヴァに乗れなかったかもしれない。「シンジを利用する」はどのタイミングで決まってたのか。

理由はともかく、それがユイが初号機に乗る前の段階だったとしたら。

ともあれ彼女が初号機と一体化してしまったら人類なんかよりユイが絶対優先マンのゲンドウがゼーレを裏切って補完計画を利用してでもユイとの時間を取り戻そうとするだろうことが彼女には予想できただろうし、最後の最後に息子を守り、ゲンドウを救うためには自分が初号機の中にいる必要があったのかなと。どんな形でどんな場所であれゲンドウとシンジの側で眠っていることが彼女のたった一つの願いだったと。

■仕組まれた子供たちとは

なんで式波と綾波シリーズがシンジに好意を持つようプログラムされてるかをメタい視線で言ってしまうとカヲルくんも含めていわゆるイマジナリーフレンドの具現化なんだろうなと。テレビ版の頃からアスカがパペットをイマジナリーフレンドとしてるのはモロだし、元々心理学的な要素多いんですよね。

そう考えるとシンジが願って作った存在って感じでやっぱ旧劇でシンジが作った世界なんじゃん!ってなるかもだけど、旧劇のラストから新劇にはどうやっても繋がんないでしょ…。少なくともセカンドインパクトからもう違ってる世界だし。

なので「シンジを思惑通りに動かすために仕組まれた子供たち」っていうのはメタでいうなら神である庵野監督、あの世界でいうならリリンの王であるゲンドウが「仕組んだ」でしょうね。

だからシンジのために「仕組まれた」大人になれない子供たちの呪縛はシンジにしか解けないわけで。カヲルくんが補完されるとこは映画観た時は意外だったけどこう考えると意外でもなんでもない当然やるべきケジメだったと。

■虚構世界の必要性

シンゴジで「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」ってキャッチコピーが使われてたけど旧劇でも実写が入ったり、庵野監督の中には常に虚構と現実の対比が存在してるんでしょうが、シンゴジでもシンエヴァでも虚構が現実の支えになるというのがひとつのテーマとしてあるのかなと。

パンフの冒頭には「アニメーションの面白さ」を詰め込んだ作品と書いていますが、それは決して現実からの逃避先ということではないんですよね。けっこう「大人になったらアニメなんて現実逃避のものと思わなければならない」って強迫観念が我々にはあると思うんですが(ありますよね?俺だけ?)、確かに現実離れした楽しいだけの世界を描く作品もあるんだけど、それだけじゃないよって。

黒波が見て感じるあの集落は大変だけど報いのある農作業とか他人との交流とか現実世界の日常の美しさや素晴らしさをアニメーションとして見せている。いつ終わるともしれない荒廃した世界の中にぽつんとそれを存在させることで現実が美しく感じられるのはアニメでしかできない描写じゃないですかね。プラグスーツ着た黒波が田植えしてる描写なんて実写でやったらそれこそ浮いちゃうけど、なんか微笑ましく見えてしまうとか、実写よりもアニメが映像として優れてる点の一つとしてデフォルメ描写があると思うけど、こういうとこかなと。この辺はジブリから得たものが色濃く出てるんじゃないですかね知らんけど。ジブリはファンタジーを描いているけどあくまでも現実の延長線上にあるかのようにリアルな描写にこだわってるのは有名ですし。

ミサトさんがシンジくんに託す希望の槍はたぶんあれ「ペン」ですよね。アニメを描くための。アニメーターはペンで希望を描いて未来に届けている。そういうプロの矜持を堂々と虚構世界にぶち込んだんじゃないかと。

余談だけど「田植えは後ろ向きにやるもの」ってさもしたり顔でツイートした人がいてそれを「識者」というツイートがあったんですけど、そんなことするまえに「ググれ」というのが古の掟だと思うんですが。あんなに精緻に描写してて下地がないわけないじゃないって思わないのかな…。



今のところこんな取り止めのない書き方しかできないけど、この作品を見てガッカリしちゃうなんてもったいないし寂しいし、何より失礼ですよw

いろんな解説してくれてるサイトや動画もあるし、パンフの声優さんたちのインタビューも素晴らしいし、そういうのを見て、もう一度鑑賞してくれればと思います。

俺もまだホントは「さらば」って言いたくないので、また会おうの「さよなら」ってことで2回目早く見に行きますw

まだ2回目見てないけど散々One Last Kissを聴いてて思ったのは、これが庵野監督や我々視点からのエヴァンゲリオンへの、シン・エヴァンゲリオン𝄇の歌だとしたら、別れなくてはいけないけど忘れられない、忘れたくないけど別れを告げなくてはいけない想い人への歌だったら…

サポート頂けたら…どうしよっかなぁ〜。答えはもちろん、イヤァオ!