見出し画像

ただの良い1日ではなく、素晴らしい1日になること確約の映画

というわけで渋谷も出てくるフリー・ガイを観てきました。公開劇場が少ない割にめちゃくちゃ絶賛してる人が多くて気になりまくって。予告編みた感じはなんかスマホでたまに広告が出てくるギャングがレベルアップする感じのゲームをモチーフにしててゲーム世界のモブキャラが世界救っちゃうぞ!みたいななんか文字にしてもチープな内容だったんで正直ハードルめっちゃ低かった。基本的に観た映画のパンフは買う人間なんですが(この映画は別に買わなくてもいいかな)ってなるくらい。ところが帰りに見たら当劇場では扱っておりません的なこと書いてあってもしかしたらパンフ作られてない疑惑。

ちなみに映画のパンフレットって日本独自の文化らしいです。

とか言いつつタイトルでもクソ煽りましたが、実際みたらめちゃくちゃ良かったです。TLには「今年No1!」ってツイートがいっぱい出てきてたんですが俺の中ではなんなら俺史上トップ3に入るかもっていうくらい良かったです。

これ以降にはネタバレもすることになるかもしれないので、是非、予備情報を何も得ないで観てください。期待値低めじゃなくてもかなり高めでも余裕に超えるので観てください。

■教科書に載せてもいい映画

観た人はいかがな感想でしょうか。俺の感想は一言で言えば、「21世期の0と1で描かれた聖書」です。

ゲームのモデルはフォートナイトだったりグランドセフトオートですかね。実はどっちもやったことないですが。プレイヤーが何をやってもいいしミッションとして銀行強盗があったりするんでグラセフっぽいなーと。やったことないけど。ただ実際のゲームとしては深く考えなくてもいいのでふわっと「プレイヤーはやりたい放題のゲームの世界」って捉えとけばいいのかな。そんなものが教科書に載ったり聖書であっていいはずがないんだけど、そんなことを覆すのがこの映画なんです。

あらすじをさらっと書くと、かつてインディゲームを作っていたキーズとミリーという男女がその骨格コードをアントワンというクソ野郎なゲーム会社の社長に盗用されてミリーは訴訟を起こして悪行を暴こうとするけどキーズはアントワンの元でしょうもない役職に就いているという。

で、主人公であるライアン・レイノルズ演じる「ガイ」がその骨格コードを組み込まれていて自律AIとして目覚めるというのが物語の始まり。

全体のノリがレディプレみたいだなーって思ってたら脚本家は同じなんですね。監督はナイトミュージアムとかストレンジャーシングス撮った人なんで、そういうエッセンスも感じました。

予告で描かれているのは本来モブキャラであって意思を持たないはずのガイがゲームの世界の住人であることに気付いてモブから主人公キャラになるよ〜みたいな感じだと思う。俺はそんな感じで捉えてました。なんだかんだあって、そのゲーム世界が危機に陥るのでそれを救うっていう。まあ合ってるといえば合ってるけど狙ったミスリードなのかな。だとしたらミスリードは成功してるけど、この映画の真の価値を隠したのが正解かどうかはよくわかりません。アメリカでは結構いい感じらしいけど日本での興行成績はコロナのせいもあるとはいえ、悲惨なことになってそう。だからもったいないなぁと。

まずこの映画、ゲームと現実というメタ構造を生かした話としてはレディプレとも通じていて、それでいてより現代的なのでめちゃくちゃ身近に感じるし、ストーリーも王道とはいえ捻りも効いててレベル高い。レディプレは完全に未来のヴァーチャルなフルダイブに近いゲームだけどこの映画の舞台となる「フリー・シティ」ってゲームは普通に液晶モニターを見てマウキーで操作する今我々がやってるようなFPSと変わんないし、劇中には実在するゲームを実況する人たちも出てきます。そういうのを利用して「今」の世界の現実感もうまく表現してます。多人種が働く巨大ゲーム企業という舞台も人種や経済格差を描いていて、それも「今」の世界の現実感に通じてますね。あと、主人公がロックマンの武器であるロックバスターを使うようなレディプレと同じく色んなゲームとかの要素や小ネタを入れてるし、ライアン・レイノルズだから許されるような衝撃のシーンもありました。これはネタバレでも書くのが憚られますが小道具どころか音楽まで使うのか!という。ちなみに俺が見た回は俺しか客いなかったので思う存分叫びました。映画館の経営が心配ですがこういうとこは地方の映画館の役得?というか。あれアメリカの映画館ならエンドゲームの時くらいに湧いたんじゃないですかね。

とまあ、ここまでは「エンタメ」としてのこの作品の素晴らしさです。しかし、これだけでもレディプレ並みにはすごい映画と言えるんですが、そこを超える要素がありました。

■エンタメまみれの倫理と規範

「21世期の0と1で描かれた聖書」と言いましたが、劇中では「このゲームは0と1で書いた物語」みたいな表現があったと思いますし、「ガイ」に仕込まれていた「コード」はキーズがミリーに宛てたラブレターだったというのもめちゃくちゃエモかった。だとしたら今やデジタルで上映されてる映画は映像が0と1に変換されてそれが映写機とスピーカーによって光線と空気振動として我々に伝わり視覚と聴覚の神経が電気信号にして脳に伝えて脳内で映像化されるこれは「0と1で描かれた聖書」なんですよ。

そもそも聖書っていうのはキリスト教の聖典なわけでぶっちゃけ俺の中ではコーランでも経典でも同じなんですけど宗教の聖典ってラノベもびっくりなトンデモ小説であり預言書であり思想哲学書なんですよ多分知らんけど。こんなこと書いてたら原理主義者に撃たれそうですが。俺は神社仏閣巡りをするしお墓には手を合わせるし一応敬意は払ってるんですが無神論者と言われればそうなのかな。でも神の存在を否定する証拠なんてないし、いてもいなくてもいいとは言わないし、いた方がいいと思うんですよ。俺にとってはじゃなくて、誰かにとって。だから宗教がずっと存在してるんだろうし。言ってしまえば神父さんも坊さんも心理療法士みたいなもんで、そこを拠り所に救われる人がいるなら神はいるべきだと思います。なんか上から目線みたいになってますがちゃんと伏して敬うレベルです。宗教を支える人たちはその存在を維持するために建築や儀式によってそれを存在し得ているので。

そして宗教というのは人とその社会を導くために礼儀作法と思想哲学を授けることもしています。我々日本人が当たり前にしている手を合わせたり、お辞儀をしたり正座をしたり、色んなところに「人としてちゃんとする」ためにやってることは大体、元をたどれば神道か仏教に寄ると思います。たぶん。ちなみに日本人は八百万の森羅万象に神が宿ると信じるのも当たり前になってますが神や仏がいるのに精霊まで信仰するのかってくらい西洋からは不思議に見えるらしいですね。

めちゃくちゃそれっぽく小難しい宗教の話をしましたが、これがフリー・ガイというゲームの中で鉄砲やレーザー使って人を吹っ飛ばしまくる映画となんの関係あんのかって感じですが、劇中でキーズとミリーは自分たちが書いたコードが自律AIを産んだことに驚き戸惑うんですね。ガイはアントワンのことを話されて「神ってこと?」って言いますが、実はミリーとキーズこそが創造主として新たな生命を生んだ神になったわけです。ついでにいえば土地を作り道具と言語を与え、知恵、知識、文化が育まれていくことになります。まさに天地創造。

めちゃくちゃびっくりしてしまったけど、この映画、「生命とは何か」を問いかけてきたんですよ、突然。

今、我々の世界をおびやかしている「ウイルス」という存在。これは実は「生命」であるかどうかってよく問われる存在なんですね。

理系的な話をすると生命の定義は「自己複製」「エネルギー代謝」「外界との境界」っていうので条件付けされるっていうのが主流の考え方みたいです。

でも俺みたいな文系の人間からすると生命倫理的な方にいくと思うんですね。一言で言ってしまえば「自律性」になるのかなっていう。これは俺個人の意見ですが。昆虫も植物もDNAに従っているとはいえ他者から見れば自律的に行動しているように見えると思います。ところがウイルスっていうのは完全にプログラムで動いてるみたいなんですよね。ただただ複製し、宿主を殺してしまうこともあるその行動に自律性ってあんまり感じないと思いますし。

さて、映画の方に戻りますが、あの世界でガイやその他のNPCは「複製」をすることはないしエネルギー代謝もないし(電力消費はあるのか?)、外界との境界も現実世界からでは見えないしあいまいですよね。「どのサーバーだ!」ってなってたし。ただ、ガイも他のNPCも感情を持ち、思考し、行動を自己決定しました。食べ物を食べて美味しいと感じ、恋をして、友の死に心を傷める。これらを踏まえて「生命ではない」とはなんか気持ち的に言いづらい。いや、生命の誕生を祝福したい、となるんじゃないでしょうか。ガイと会話したら、彼が「記録」されているハードディスクをかち割るのは多分(倫理的にやばい)とためらうでしょう。それは殺意への拒否感でしょう。

何言ってんの、映画の中の話でしょwとひと昔前なら言えたかもしれませんが、今やAIはアレクサ 、Siri、ペッパーくんなどなどすぐ側に存在する時代です。人によってはお掃除ロボットのルンバくんにも愛情を注ぐといいます。次のシンギュラリティはどこかわかりませんが、アレクサが(そろそろ電気つけたほうがいいかな?)って自己判断で行動し始めたら、そこに我々は生命を感じ始めるかもしれない。自律AIが主人公であるアニメ「Vivy -Fluorite Eye's Song-」のこともnoteに書きましたが、判断を自己で行う自律性を見せられると感情が希薄でも、そもそも植物や昆虫の感情だって我々には希薄なので生命との差はあんまりないと思うんです。

とここまで書いてきた生命倫理についての俺なりの考えが駆け巡るくらいは、この映画は「生命とは何か」を描いてました。生命の誕生を通して。描かれたものから受け取るその答えは人それぞれだと思いますが、坊さんのお説教を聞いてどう捉えるかもその人のその時の在り様次第とどっかの坊さんが言ってた気がします。「教え」とは「考え」のきっかけであるべきなので。

さて、そういった生命倫理とはまた違って、この作品で主人公が自分に問い、他のNPCたちに問うのが「どう生きるか」なんです。「何をしたっていい、人生は自分次第」。そう言いながらも彼は模範的な行動を通して犯罪したい放題のゲーム世界のプレイヤーに意識改革をもたらすんですね。彼は人生の指針と道徳を示すんですよ。

孔子じゃん!

論語一通り読んであんまり覚えてないけど、今の時代には当たり前だけど古臭い儒教の教えですが、とはいえ礼節や人生哲学には学ぶところがあるものです。だけど今時の「FPSやめられないんだけどー」な子たちに論語読めって言っても無理があると思うんですよ。

そんな時にこの映画ですよ!なんかゲームの世界のキャラが派手なアクションする娯楽映画と見せかけて合間合間に人生哲学を説いてきて知らず知らずに教育されてしまう!知らんけど!

そう、生命倫理、人生哲学、それをSFファンタジーで包んで愛を説くこの映画は!

聖書でしょ。

サポート頂けたら…どうしよっかなぁ〜。答えはもちろん、イヤァオ!