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こそだて~駆け抜けた10年~

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執筆者 青りんご

祝福されなかった妊娠

20代後半、初めての妊娠。それは祝福とは程遠いものだった。私の妊娠が分かったとき、誰も私を祝福しなかった。産婦人科の医師、勤め先、仲間からも「おめでとう」の言葉はなかった。うすうす感じてはいたけれど、実母すら「そんなことするからよ」と言い放った。

周りから浴びせられる心無い言葉に傷ついた私は、苦しさに飲み込まれて、落ち着いて判断することが出来なくなっていた。ただ、お腹に宿った小さな命を消してしまうことが怖くて、それだけは出来ない、その想いひとつを頼りに私は母親になることを選んだ。

当時の恋人とは直後に結婚し、私は専業主婦として母親業をスタートさせた。結婚後親戚から「よかったな、(彼に)逃げられなくて。」と言われたこと、当時のパートナーが、友人たちに「子ども出来たんだって、おめでとう。」と言われていたことは、いまだに忘れられない。男と女、生物学的な性が異なるだけで、周りの反応がこんなにも違うものかとがく然とした。

その中でも、初めて胎動を感じたときは涙が出るほど嬉しかった。お腹の中で生きようとしている命を感じ、これからの生活への不安も、周りに感じる違和感も、この子が産まれさえすれば大丈夫、そう自分に言い聞かせた。

孤育ての重責

息子が誕生すると、私はこの上なく幸せで温かく満ち足りた時間を過ごした。一方で、出産時に膣壁が裂傷するなど、必要以上に傷ついた産後の身体のダメージは想像以上で、心身両方の疲弊度は加速していった。

そこに追い打ちをかけたのが、夫に養われている状態での子育てだった。

一人目の妊娠が分かったときに自主退社を言い渡されていた私は、社会とのつながりを回復することが出来ないまま、命を育てるというミッションだけを遂行した。疲弊しきっている私には、家にいて子どもの世話をする以外の選択肢は無かった。

命を守る医師、看護師、身の回りの世話や成長を記録する保育士、栄養士、調理師、時に美容師。子どもが大きくなるにあたって、家庭学習を維持する教師の役割、学校という社会で過ごす子どものメンタルケアを担うカウンセラーなど、母親がいかにいくつもの大変な役割を求められ、その責任を負っているかを痛感した。加えて、家族のために家の中を整え清潔に保つ家政婦の役割も担う。

家事育児に慣れない私は、その重責に日々押しつぶされそうになり、貧血や腎炎など度々体調を崩し精神科にも通うようになっていった。

その後、社会とのつながりが回復されないまま二人目を出産した。娘が産まれ、私はますます家に閉じこもる生活を送るようになった。

母子3人で家を出た

息子が5歳になり、娘がもうすぐ3歳になる頃、子ども達と3人で家を出た。文字にすると一行だが、家を出たあの一日の濃密さは、10年以上経った今でも色あせることなく覚えている。

弁護士との出会い、親戚宅への避難、警察の介入。

一つ一つが、命の危険を感じるほどの衝撃だった。

ただ、家を出たことがきっかけで、私は極度に疲弊していたものの、自分で自分の人生の舵を切っていくことになった。

新しい住まいの契約、就職、子どもの転園。手持ち資金もなく子育てをしながらのそれは、周りの理解を得ることが難しかった。

自分一人で生きていたころに比べ、全てにおいて不利だと感じることが多く、責任は重かった。

けれど達成したときの喜びは、全てにおいて3倍だった。

別居から1年3か月後、調停にて離婚が成立した。

ひとり親になってからの10年

その後の10年は、本当に必死だった。職を何度か変え、検定や資格も複数取得した。ひとり親支援団体の方々とも出会い、ロールモデルがいることを知った。働かなければ!と最初に飛び込んだ仕事から比べると、年収は数倍になった。今は、少しずつだが個人でも仕事を請け負うようになってきている。

小さかった子ども達は、高校1年生と中学2年生になった。

小中学校時代の息子は対応に苦慮するほどで、学校からの電話や呼び出しは頻回。コミュニケーションや物事の捉え方に特徴のある息子は、学校という集団の場で平穏に過ごすことに相当なエネルギーを必要とした。

担任教師、養護教諭、学童の職員、中学校時代には部活の顧問教諭とありとあらゆる大人に私は息子の特性を説明し、ヘルプを出し、先生方に理解してもらうことで、息子を支えた。今は娘が、様々な理由で学校を欠席することも多い。

子ども達の聞いてほしいサインを見逃さず、しっかり向き合うことで、子どもなりに色々思うところを私に伝えてくれる。あの時はこう思っていた、今はこう思うなど。その度に伝えてくれたことに感謝を示し、こちらが出来ることを子ども達には伝えている。

孤育てを己育てへ

10年が経ち、落ち着いて振り返ると、私にも子ども達の誕生を祝福してくれた人がいたことに気が付く。苦しくて、心細い時に手を差し伸べてくれた人がいたことも。

今も忘れられない人がいる。子ども達と3人で住む家を探しているとき、別居中ということで、私は何件もの不動産屋に断られていた。相手が乗り込んできて、トラブルになったらどうするんだと責められることも多かった。
ボロボロに傷つきながら最後に訪れた不動産屋で、親身になって話を聞いてくれた女性。「これから公開する予定なんだけど」と、築浅の素敵なワンルームを紹介してくれた。

契約が決まって入居後送られてきた契約書には、ポケットマネーで用意してくれたであろうクオカードが添えられていた。「コンビニが近いので、お子様たちにお菓子でも買ってあげて下さい。」のメッセージ。その言葉にどれほど励まされたか。私にも応援してくれる人がいる。

傷つくことが多い中で、その心遣いが本当に嬉しかった。私は、その励ましに応えられているだろうか。退職されたその女性には、お礼が言えないままになっている。

息子が小学校のとき、担任の先生が「子育てを己育てにできるお母さん」と、私のことを表現した。その時は実感がなかったが、今、ようやく己育てが出来ているかもと思えるようになってきた。不動産屋の女性にも、言葉をくれた先生にも、己育てしながら子ども達と毎日元気に過ごしていることを、胸を張って伝えたいと思う。

駆け抜けたこの10年が私には必要で、それが今の私の宝となっている。

最後までお読みいただきありがとうございました。このエッセイは、シングルマザーズシスターフッドの寄付月間キャンペーン2022のために、青りんごさんが執筆しました。

寄付月間とは、「欲しい未来へ、寄付を贈ろう」を合言葉に毎年12月の1ケ月間、全国規模で行われる啓発キャンペーンです。シングルマザーズシスターフッドは寄付月間2022のアンバサダーにもなっています。

今年のキャンペーンでは「Turn lemons into lemonade.」をキャッチフレーズに、シングルマザーが試練を転機に変えたエピソードをエッセイにして、人生を前向きに進める一人ひとりのシングルマザーの生き方を祝福します。

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