見出し画像

日々よ、非日常であれ。

日常を奪われた。

まさかこんなことが起こるなんて。
異常事態だ。
新しい日常だ。

この2年、誰もがこれらの言葉を一度は口にしただろう。

私も“日常を奪われた”と毎日思った一人である。
しかし、非日常とやらを2年も続けると、段々と疑問が湧いてくる。

日常とは、一体何か。

朝起きて歯を磨き顔を洗い仕事に行き帰って飯を食い風呂に入って寝る。友達や恋人、家族と会いたい時に会い、行きたい場所に行きたい時に旅行する。
それが日常だと言うのなら、非日常とは何なのか。

しかし私たちは傲慢にも、明日を当たり前に来るものと勘違いしている。
致し方のないことだ。
それは“平和”の証拠なのだから。

日本人は平和ボケしている、とよく言われる。
それもそうだ、戦争は75年以上もなく、気候変動の影響も他国に比べれば小さく、テロもなく、飢えに苦しむ人も比較的少ない。未曾有の大災害でさえも、時が経てば思い出さなくなる。

本当にそうだろうか。

なぜ、平和ボケと言われるか。

それは、「他人事」「不干渉」「自己解決」の流儀である。

毎日のように報道される事故、事件、毎日のように自殺する日本人、隣国の災害、どこかの戦争、国に殺される遠くの人々、水を汲みに何十キロと歩く人々、飢えて死ぬ人々。
全て、この地球上の問題と思えばその人にとって地球は平和ではない。他人事と思えばこの世界は平和である。

失礼、少し話が大きくなりすぎた。


私が21のとき、友人が死んだ。
親友だった。
事故があった日の3日後に会う予定だった。
その後半年以上、ニュースが見られなくなった。
毎日のように交通事故で人が死んでいることを、初めて知った。

私はそのとき、
「人はいつだって死ぬ可能性がある」
ということと、
「何を他人事と思うかで人生が変わる」
ということを知った。

改めて問う。
日常とは何か。

それは、その人が何を日常と思うかによって違う。
ただ、ここに一つ真理がある。

日常は、常ではない。
いつだって、どこにだって、
日常が終わり非日常が訪れる可能性がある。
そしてその非日常は、いつか日常に変わっていくのだ。

だから私は日常などという幻想を信じない。
これは悲しい結論ではない。

非日常には色んな可能性があるのだ。
悲しい非日常があるなら、喜ばしい非日常もある。

非日常と日常。
それが人生である。


久々に重たい文章を書いてしまった。
次は明るい話にしよーっと。

P.S.
24年しか生きていない人間が人生を語っているがそれは無視して頂きたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?