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「海の交響曲」ホイットマンを原詩を読む

はじめに

 イギリスの作曲家、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872年10月12日-1958年8月26日)の「海の交響曲」は1903年に交響曲第1番として作曲が開始され、1910年10月12日にイギリスのリーズ音楽祭において作曲者自身の指揮によって初演された。ヴォーン・ウィリアムズは九つの交響曲を残しているが、歌詞が入った曲は「海の交響曲」だけである。歌詞はアメリカの詩人ウォルト・ホイットマン(1819年5月31日 – 1892年3月26日)の詩集「草の葉」から引用されている。

 ホイットマンは1819年にニューヨークで生まれ、印刷工場で働きながら詩を書きため、36歳の時に詩集「草の葉」を出版した。この詩集で評価を得てホイットマンはアメリカを代表する詩人になっていく。「草の葉」は海外にも紹介され、1868年にはイギリスで出版され人気を博した。

 もとのホイットマンの詞を読んでみることで、歌詞の背景をより深く理解したいと考え、全体の原詩と対訳をまとめてみた。原詩はインターネットで閲覧できる「ウォルト・ホイットマン・アーカイブ」に基づく(1)。対訳は酒本雅之訳の岩波文庫「草の葉」(2) に基づく。太字の部分が「海の交響曲」に採用された箇所である。

第1楽章

 第1楽章の冒頭部分は、「草の葉」の中の「Song of the Exposition 博覧会の歌」の第8節から歌詞を採用している。「博覧会の歌」は、1871年にニューヨークで開催された第40回の博覧会の開会式でホイットマン自身により朗読された詩である。アメリカにはイベントにおける「詩の朗読」の伝統があり、2021年1月のバイデン大統領の就任式でも詩人による朗読が行われている。

 「博覧会の歌」の背景についてはウォルト・ホイットマン・アーカイブのKaren Wolfeによる解説 (3) に詳しい。Wolfeによれば、この催しはThe National Industrial Exposition of the American Instituteの名称で1829年から1897年までニューヨークで開催された博覧会であり、すでに詩人としての地位を確立していた55歳のホイットマンが博覧会の開会式に招待された。イベントの1か月前に主催者から自作の詩の朗読を依頼され、1871年9月7日の開会式に本人により朗読されただけでなく、会場のパンフレットにも印刷された。その後1872年版の「草の葉」に収載され、さらに1881年の版では冒頭の括弧で囲まれた表現が追加された。

 博覧会の開会を祝う目的から、この詩は19世紀のアメリカの地位向上と産業の発展をよく描写しているが、Wolfeが指摘しているように、その内容からこの詩は他の詩より一段低く見られていたようである。各国の神を呼び寄せる壮大な第2節の後、各節において具体的な商品名が登場し、まるで「売り込み」のようだと書かれている。なぜヴォーン・ウィリアムズがこの詩から歌詞を採用したのか、非常に興味深い。


 冒頭のカッコ内の詩は朗読から10年後の1881年に追加されたものであり、過去を振り返ったホイットマンの心情が反映されていると考えられる。ホイットマンから見ると「労働者」の行いは神に近づくほど素晴らしい行為なのに、彼らがそれに気づいてないことに対するいら立ちがあるようである。

  詩神ミューズに対して、どうぞ古い欧州のことは忘れて、「さらに優れ、さらに瑞々しく、活気ある世界、広大で未踏の領域」であるアメリカに来てくださいという、当時のアメリカの欧州に対する立ち位置がわかる第2節である。

 第3節では、旧大陸に伝わる中世の伝説、遺跡、神々たちが次々と登場しつつ、それらが「すでに役目を終え」ているとが述べられ、最後に突然、「排水管、ガス計量器、化学肥料」という言葉が出てくる。「商品の売り込み」と言われるゆえんである。当時のニューヨークの最新テクノロジーを示す言葉として取り上げられたのであろう。ちなみに「ガス計量器」は酒本氏の誤訳と思われる。原詩の「gasometer」とは当時はじめて建設がはじまった近代的なガスタンクを指す。有名なものはウィーンのガスタンクで、19世紀の巨大なガスタンクが観光名所になっている。ニューヨークのガスタンクも19世紀に整備され、Troyガスタンクとして歴史遺産になっている (4)。

ニューヨークのTroyガスタンク

 第5節は、冒頭でまず「父親」たる大陸文化に敬意を払いつつ、自立して新たなアメリカの文化を「負けじと」打ち立てていこうという決意が語られる。そしてまず、会場の大建築の描写が現れる。欧州の歴史的な大建築を凌ぐものを建造したという心の誇りは当時のアメリカ人にとって、とても大きなものだったに違いない。Wikipediaでは、1853年のニューヨーク万国博覧会のために作られた「ニューヨーク水晶宮」のこととされており、ホイットマンが「博覧会の歌」でこの建築を取り上げているとしている。


ニューヨーク水晶宮(Wikipediaより)

 突然の戦争の描写から始まる第7節。この詩が書かれた1871年は南北戦争の終結からわずか6年である。奴隷制存続を主張して合衆国から離脱したミシシッピ州やフロリダ州など南部11州と、合衆国にとどまった北部23州との間で1861年に開戦となり、100万人の犠牲者を出して1865年に終戦となった。

 ホイットマン自身も1862年から看護士として北軍に従軍し、その経験は多くの詩作として残されている。初期の詩は北軍を鼓舞する好戦的な内容であるが (5)、戦争の惨禍を目の当たりにし、徐々に戦場の光景や兵士の死を取り上げるようになる。博覧会の聴衆のなかでも、南北戦争の記憶はまだ生々しいものであったに違いない。

 戦争の追憶を語りつつも、ホイットマンはすぐに未来に目を向ける。新しい技術により広く地球全体が目の前に広がり始めた時代である。「最新の連絡設備」が19世紀後半に飛躍的な進歩を遂げ、地球を狭く感じさせる原動力になった。米英を結ぶ大西洋横断海底ケーブルは、その距離の長さ、海の深さから困難を極めたが、1866年についに完成した。アメリカは東の欧州と電信で結ばれ、1869年にはアメリカで最初の大陸横断鉄道が完成した。

 そして、地平線の先に見えていたのがアジアである。欧州とアジアを結ぶ運河の構想は古代からあったが、現在のスエズ運河が構想されたのは1830年代である。1854年にフランスの外交官レセップスがエジプト王から認可を得て工事に着手し、難工事の末、1869年にスエズ運河は開通した。19世紀末は世界が新しい技術により通信や交通が発達し、人々が「一つの丸い地球」を実感できるようになった。この世界観は海の交響曲第4曲の歌詞「インドへ渡ろう」に繋がっていく。

 第1曲の歌詞は主にこの第8節から取られている。アメリカに呼びかけることは、「左側に「勝利」、右側に「法」を従え、「統一」であるあなたがいっさいを支配し、いっさいを融合し、吸収し、許容する、」、これは南北戦争を超えた和解と前進を求めるホイットマンの気持ちの表れであろう。ホイットマンは「私の詩題に具象を与えて呼び出だし、次次とあなたの目のまえを通り過ぎて行かせよう。」と述べて、まずは豊かな農作物や鉱物資源をもたらす水と土を呼び、そして「Behold, the sea itself, 見たまえ、海でさえやってくる、」と呼びかける。ここでは交通や通信が発達した結果、遠くの「海」がアメリカに向かって「近づいてくる」という視点を感じさせる。ここからの一節がヴォーン・ウィリアムズにより「海の交響曲」冒頭として引用されたのである。
 つづく海の描写で、2種類の船が登場する。See where their sailsの「帆船」と、See, the steamersの「蒸気船」である。後述するように、当時は海の主役が帆船から蒸気船へ交替する時期にあたり、歌詞では帆船と蒸気船が互いに競うように描かれている。
 「博覧会の歌」は海にフォーカスした詩ではなく、ホイットマンはさらにオレゴンの大地や湖に呼びかける。「海の交響曲」作曲にあたり、ウィリアムズはホイットマンの詩から「海の情景」を選び取ったといえよう。

 最終節で戦場の生々しい描写が繰り広げられる。南北戦争が終わって6年、ホイットマンは改めて戦場のむごさを訴え、近代産業の発展が世界に平和をもたらすことを期待して「博覧会の歌」を終えている。

 第1楽章でバリトンソロが入るF以降の部分は、ホイットマンのSea Drift「藻塩草」の中のSong for all seas, all ships.のほぼ全体を採用している。「藻塩草」は1881年、ホイットマン62歳の時に「草の葉」に加えられた。

 練習記号Ggから再び「博覧会の歌」のBehold the sea itselfを回想しつつ、「藻塩草」から女声とテナーにはAll seas, all ships、バスにはfor all nationsの言葉を割り振り、第1楽章を閉じている。

第2楽章

 Sea Drift「藻塩草」の中のOn the beach at night alone「夜の浜辺でひとり」を歌詞に採用しているが、使われている言葉は全体の半分ほどであり、曲の流れに沿ってウィリアムズは言葉を取捨選択したと思われる。また練習番号Gの歌詞はplaceからspaceに変更されている。

 練習記号Fから始まる「A vast similitude 広大な類似」とは何か。ウィリアムズが省いた箇所を見ると、様々な例示(「すべての天体、太陽、月、惑星」、「気体の、液体の、植物の、鉱物の、すべての働きも、魚類も、獣たちも」など)が表現されており、これらは互いに「類似」しているもので、「すべてがつながっている」のだと読める。

第3楽章

 Sea Drift「藻塩草」の最後を飾るAfter the sea-ship「海をゆく船を追いかけ」を歌う。この詩はすべての言葉が曲に使用されている。

 歌詞と同じく流れるような曲想で、海をゆく帆船のダイナミックな情景が伝わってくる。ホイットマンが「藻塩草」が書いた1881年は帆船時代の末期であった。有名な「カティーサーク号」は1869年、インドからの茶の輸送やオーストラリアからの羊毛の輸送を目的として建造され、1887年に記録したオーストラリア―イギリス69日間という記録はいまだ破られておらず、イギリス海洋史における金字塔となっている。しかしカティーサーク号が建造された1869年は同時にスエズ運河が開通した年でもあった。スエズ運河により短縮された航路では蒸気船が優位に立ち、1890年代には蒸気船が輸送量で帆船を凌駕する (6)。1900年代にはカティーサーク号はアジア航路から引退し、1936年には練習船となった。ウィリアムズが「海の交響曲」を作曲したころ、帆船はすでに過去の大航海時代の象徴となっていた。

カティーサーク号

第4楽章

 歌詞はPassage to India「インドへ渡ろう」から引用されている。この詩は1891年、ホイットマン72歳の時に発表された晩年の大作で、1866年の大西洋横断海底電線の敷設、1869年のスエズ運河の完成とアメリカの大陸間横断鉄道の開通などを描きながら、当時の欧米人のインドへの憧れに似た気持ちが垣間見える。前述したように1890年代は海洋輸送の主役が帆船から蒸気船に移行した時期であり、欧州人にとってはインドがより近くなった半面、ロマンあふれた帆船が消えてゆく時代であった。

 第4楽章の冒頭は第5節の「O vast Rondue, swimmin in space おお広大な「円体」よ、空間のなかを浮遊し、」で始まる。円体については第4節で語られている。バスコ・ダ・ガマをはじめとする「あまたの船長の苦闘、死んだあまたの船乗りたち」が開いた新しい地球像、それが「円体」なのである。曲は第9節の最後の言葉で静かに終わる。「O farther, farther, farther sail! おお、先へ、先へ、先へと行こう。」。



1) The Walt Whitman Archive, https://whitmanarchive.org/published/LG/1881/poems/92
2) 岩波文庫、1998年「草の葉」ホイットマン作、酒本雅之訳
3) The Walt Whitman Archive, Wolfe, Karen, https://whitmanarchive.org/criticism/current/encyclopedia/entry_53.html
4) https://www.atlasobscura.com/places/troy-gasholder-building
5)
 岩波文庫、1998年「草の葉」ホイットマン作、酒本雅之訳、中巻「軍靴の響き」の「そうだ、まず序曲としての歌を」「1861年」「鳴らせ、打ち鳴らせ、太鼓よ」など
6) http://www.jshit.org/kaishi_bn2/19_1yoshida.pdf「船舶技術に対するスエズ運河開通のインパクト」


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