《雑記》 宮藤官九郎と、稲葉賀恵と、それから蓮見翔。

しばらく文書を書いていなかったので、誰のためでもない、自分のための文章です。

最近、小さな変化が積み重なって、大きな変化が起こるような気がしています。年末くらいから、英語学習を始めようと思って毎日欠かさず30分くらい、リスニング・ライティングの勉強を始めたら、仕事で使われる英語が何となく聞き取れるような気がしてきました。今年入って読書量を増やすという目標を立てたのですが、ちょっと空いた時間は本を読もうと意識しただけなのに既に10冊くらい読んでいて、ベッドの横に本があることが当たり前になりました。ある若手俳優にハマって、イベントのために痩せようと決意してから、ジムに通うようになり、食生活も変わり、体が随分と軽くなって見た目も変わってきました。

毎日のルーティーンができるということは、26年間生きてきて初めてです。ずっとコーヒーを入れてゆっくりする時間は家では過ごせないと諦めていましたが、生活習慣が正しくなると部屋も綺麗でないと落ち着かなくなってしまって、いわゆる『丁寧な暮らし』というものが初めて手に入った気がします。

彼氏ができたこともこの変化の大きな要因の一つです。
自己愛は強いのに、自己肯定感は低くて、周りの自分への肯定的な言葉を真に受けられなかったけど、つまり、彼が褒めてくれるのを信用していなかったけど、それでは彼に対して失礼だと思って、ちゃんと自分に向けられた好意も正面から信じて受け止めてみようかなと思うようになりました。

でも、それでも、ノンストレスになった訳ではなくて、日常にモヤモヤすることはたくさんあるし、悩みは次から次へと増えていくような気がするんです。

最近『不適切にもほどがある』というドラマにハマっています。
このドラマに関して、否定的な感想をSNSでたくさん見かけて、ズンと心が重たくなっています。
わたしは「多様性」という言葉が大嫌いです。世の中のマジョリティーにこぼされたマイノリティーをこの3文字だけ発すれば、全部理解しているよ!みたいに聞こえてしまうような気がするからです。
『ジェンダー』『フェミニズム』『マチズモ』『コンプライアンス』『ルッキズム』『ルサンチマン』…。
新しい言葉を知ると「この気持ち・この現象はこういう風に名前がつくのか!この気持ちを抱えているのは、わたしだけじゃなかったのか!」と安心する気持ちもあるのですが、同時に、言葉や定義だけに縛られて、逆に型にはめこむことが、個人的問題の本質的な理解の邪魔になるんじゃないかな〜…と思うこともあります。
どちらにしよ、色々勉強しないといけないということに変わりはないのですが、そのような思いが、純粋にドラマ楽しむことを遠ざけ、わたしの日常生活をより複雑に・難しくしてしまっているという現象が起こっているような気がしてなりません。

ドラマの3話で出てきた山本耕史が演じる番組プロデューサーがまさにですが、わたしもあのような状況になりかけているという自負があるんです。
実家に帰ると、ご飯の時間になっても、父親はずっとテーブルから動かずのんびりテレビを見ていて、母親はご飯の準備に忙しくしていて、この光景が気持ち悪くて、実家に帰るのが嫌になりました。今思えば、わたしの家は典型的な家父長制で、何をするにも母にまず相談すれば「お父さんの許可が出たらね〜」と言われていました。

ひと昔前の男性的価値観を、阿部サダヲが演じる小川を、本当に気持ちが悪いと思います。
でも、ドラマは面白いし、宮藤さんの気をつけていること、伝えたいことも何となくわかるような気がしていて、それは他にもクドカン作品を結構知っているから個人的に盲目的に崇拝しているだけなのかもしれないのだけれども、ただ、それを全然上手く言語化できないのが悔しくて。何が悪くて、どう表現するのが間違っていて、どの表現は正しいのか、全然説明できない自分の語彙力と世間と自分を語るための知識量がないことに愕然としています。

それから、稲葉賀恵さんの『不思議な国のエロス』を見ました。
〈あの時代を現代に描く〉という点では、『不適切にもほどがある』と通ずるものがあって、もちろん寺山修司を通っているからこう言えるだけで、大元のネタは古代ギリシャ劇で紀元前までタイムスリップしてしまう訳だけど…
やっぱこれだけ直接的に「オンナはヤラセロ!」だの「オトコはオトコらしく戦争ダ!」など台詞があるのに、それが気にならずに、というのはつまり、それが鑑賞の歯止めにならずに、現代に通じるものがあると感じられるのは、“オンナ”や“オトコ”を描いているのはもちろんだけど、そこがメインではなくて、ちゃんと“人間(個人)”を描いているんだって思うからなんですよね。衣装が男女入れ替わったり、女の人の歌声が必要以上に低かったり、そう思わす工夫はたくさん散りばめてあって。そして演劇の世界(架空の世界)であることを強調する衣装の着脱と現代の高校生の視点。少女を男性理想の少女像として押し付けていない感じ、男性も然りで。クライマックスの集団と個人、希望と絶望。
こういうことが、ファッション・人種・外見的で表面的な人間ではなくて、もっと内面的に人間というものについてアクセスさせてくれている気がするのです。

小川一郎も、純子も、渚も、キヨシも、サカエも、ムッチ先輩も、みんな、時代は違うけど、価値観も考えた方も、全く違うけど、正反対だったりすけど、それぞれの悩みがあって、苦悩して頑張って生きてるって分かるから…..

なんで、物事をもっと内面的に・多角的に見ようと努力できない人たちが、こんなにもいるんだろうか…..

あとね。本当に文脈ぶっ飛ぶ、全然関係ない話をします。
いいよね、自分のための文章だから。

『+90000 2』っていうテレ朝主催のダウ90000という芸人のお笑いライブを見まして。以下、やっぱり蓮見翔ってかっこいいなという話です。

ダウのライブは昔『10000』という単独ライブに行ったっきりで、そこからご無沙汰していました。
チュートリアルさんとのライブだったのですが、そうなると必然的に『若い子 // おっさん』という構図になっていて、それがめちゃくちゃ綺麗で、感動して手を叩いて笑っていました。

お笑いライブは、何の前情報も入れずに、余計なことを考えずに舞台に向かわないといけいないので、難しいです。
オペラは、イタリア語やドイツ語が主で、時代も場所も日本じゃないことがほとんどなので、事前勉強をすればするほど楽しめます。バレエなんかは、何と言っても言語がないので、ストーリーの予習は絶対にしていくべきです。
演劇は種類によりますが、今回の稲葉賀恵さんなんかは、寺山修司を知らないと世界観にびっくりすると思うし、さらにその元が古代ギリシャ演劇であり、最低限アテネやスパルタという言葉が出てくるくらいは知っておかないと楽しめないでしょう。
そんなエンタメの方が見慣れていることもあり、身軽で何も考えずに劇場の席に着くということは、自分にとって難しいのです。

つまりは、コントを見ている間も、「このネタどうやって思いついたのだろうか…」「何で“おっさん”という言葉をこんな柔らかく使えるのだろうか…もしくは使っているように聞こえるのだろうか…(まあそれは、蓮見さんがチュートリアルを尊敬しているからだろうけど)」とか、物事を何でも難しく捉えようとしすぎてしまう癖があるのです。

蓮見さんはこういうのが一番嫌いだろうし、それは分かっているので、わたしの頭の中では、令和ロマンくるまさんとウエストランド井口さんが「分析だ!分析すな!」と掛け合っている声が常に聞こえているような感覚です。

わたしは文化人になりたくて。でも文化人にはなれなくて、じゃぁカルチャー女子になれるのか?って言ったらそうでもないし、それが自分のコンプレックスで。ビレッジバンガード入ったことないし、ゆらゆら帝国も聞いたことがない。
安部公房好きです!って言いたいけど、東野圭吾を読んでいる方が楽しいし、だからと言って、今村夏子や穂村弘をすごく読んでる訳ではないし…。

蓮見さんは文化人になれる人でありながら、カルチャーの人でもあって、笹塚のサイゼとかでバランスとってるのが、羨ましくて、尊敬していて、本当にかっこいい。大好き。

食への興味関心は強いのに好き嫌い多いところも、クレジットカード作れなかったりネットショッピングに疎くて生活が苦手なところも、若者のすべて流しながら飯原さんと車で帰ったことも、公衆電話で電話してみるところも、東松原に住んでたことも、猫背なところも、スズナリの隣のベンチで女の子と座ってるところも、ダボダボのスウェット似合う系女子になるぞってわたしに決意させたことも、気に入った表参道の年下美容師さんになかなかDMできないところも、はぁ〜〜….、好きです…….、好きが溢れて止まらないドウシタライインダ…………………

てか「食べ物の好き嫌いが多い」「部屋が汚い」って自己肯定感を下げる2大要素だと思ってたけど、ダウを知ってからそうでもないんだな〜って思ったんだよな〜…

みたいな話は本当にどうでもよくて…..。。。

話が飛びすぎて、何の話をしてたか分からなくなりました。

なんだか。
難しいことを難しいまま考えるのは大切だし、難しいものを簡単にして考えるのも大切だし、でもそのためには、簡単なことを難しく考えることもできないとダメだから、それも大切だし…、っていうことを考えたよっていう話です。

何を難しく考えて、何を簡単に考えたらいいか、さっぱりわからないけど…..

パレスチナとイスラエルの紛争は、大きな関心で、イスラエルの虐殺を許せないけど、友達に誘われたらスターバックスに行ってしまう。蓮見翔だってマックに行っているだろうし(オードリーはCMやってるし)。自分の中の小さな世界と、大きな世界、エンタメの世界と現実世界、生活圏内の幸せと、世界平和。
わたしの悪いところは、この全ては地続きだと信じてしまっているところで、だから一貫性の取れないことに不安を感じてしまうんだな〜…。

作り出した作品を評価してしまったら、その作り手も絶対潔白でないと困るのも、この考えからです。ジャニーズを応援してたわたしまで加害者、松本人志で笑っていたわたしまで加害者、そう思ってしまうのです。けど多分、これは間違えている気がする。


どうしたらいいんだ世界?

そもそも他人なんて分かり合えるはずないのに…


なんか、文章書いていると疲れました。

とりあえず、ダボダボのスウェットを古着屋さんで買って、コーヒーなどを片手に下北沢を歩いてみようかな…..

でも、実は今から、名取事務所の『509号室』観に行くんです。メンタル心配です。

まぁ。とりあえず、開演まで、ちょっと雨降ってるし、傘ささずにエポニーヌごっこしよう。それで、スズナリの隣のベンチに座って蓮見さんの彼女ごっこしよう。(ここまで真剣?に文章書いておいて、最後にこんな適当なキモいことが書ける神経が自分で一番信じられなかったりする。)

それから。うん。
それから、考えよう。

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