「クスノキ占拠」運動および「クスノキ返せ」についてのコメント

*本文は活動自体についてのみならず、半人さんの『「クスノキ返せ」運動についての一意見』にも基づくものなので、読者にこの事件についてある程度の予備知識を想定しております。ここで半人さんの記事はご覧ください。

「クスノキ返せ」運動というのは、京都大学構内におけるパレスチナ連帯キャンプの撤去を求める運動である。パレスチナ連帯の長期性と空間的広がりのに対して、「クスノキ返せ」は一時的であり、パレスチナ連帯(以下KUVASP)の占拠行為に対する中止要請以外明確な訴求が見られていない。
すでに半人さんの文章から「クスノキ前という公共空間が一団体にのみ占有されるのはいけない」という主張が確認されたが、問題となるのは占有活動自体なのか(この前毎年吉田寮の方も占拠をしたので、特にKUVASPが初めというわけでもない)、「一団体のみ」なのかまだわかっていない。氏の主張によると、件の占有によってクスノキへのアクセスは一部遮断されたので、その占拠を排除すべきらしい。
確かに半人さんは長い段落わたって国立大学へのアクセス権を論じたが、けれども、アクセスと占有の違いについての議論の欠落によって、若干議論する余地まだ残されると思う。蛇足になるかもしれないが、本文は主に任意団体による占拠の性質から今回の具体的KUVASPによる占有について論じると思う。

大学へのアクセスと占拠との違い

日本の大学(教育研究を目的にする高等教育機関およびその敷地)へのアクセスは、現状として自然人を対象に開かれている(出入口でIDカード読み取り機の設置などなし)、用途又は目的を妨げない限度でその使用収益を認める場合もある。例えば、半人さんの言及した「ベビーカーを押す女性に、ランニングする中年、散歩する老夫婦」は、同志社大学でよく目にすることができる、写生活動をする年配者集団もほぼ毎週来る。京大の場合、外国からの団体観光客も一般利用の一例である。
しかし、占拠の性質とアクセスとはまだ違う。例えば、医療を目的にする病院(クリニックの場合は別)があるとする。病院へのアクセスは、原則としてその目的を持つ人(患者、医師など)にしかできないが、目的を妨げない限りそこでの散歩、休憩なども認められる。ドイツの訪問した期間、公園と一体化した病院を見たことあるし、京大病院でもそういう側面がある。もしアクセス権から占拠権が生まれることにすれば、一般利用によって用途又は目的が妨げられないことは非常に難しくなるだろう。ゆえに、一般によるアクセスができる場所でも、その占拠を厳しく限定されることが多い。

任意団体による占拠の性質と大学の社会責任

従って、公開される場所であるにしても、一般団体による占拠はできるのか。法律上、その責任者の規定に従うということになるが、理屈を見ればまだ状況わけて議論することができる。
1.無関係の団体が社会に公認されない理由による占拠。例えばもしエホバの証人が「霊魂をできるだけ多く救う」や「患者を癒すイエス様の模範に従う」など理由で京大病院の庭を占拠、もしくは「ユダヤ財団が危険ワクチンの受益者」と主張する団体が同志社大学一神教研究センターを占拠するとは、これにあたる。例で挙げたことは実際起こっていないが、もし起こるとしたら、当事団体の主張のにもかかわらず、それを法律的にも良識的にも認めることができないであろう。
2.(主に)構成員による団体が当該施設にしか関わらないでもない理由による占拠。例えば、上智大学のローマ法王に対する批判的態度を持つクリスチャン集団が大司教カルロ・ビガノの破門宣告を抗議するためのキャンパス占拠、仏光寺に常に献金する信徒の団体がバンドを招待して、寺院構内で世界平和をテーマにするライブを開催。法律的に施設は断る権利を有しても、そうすれば社会に批判されることがある。
3.構成員の団体が施設にしか関わらない理由による占拠。例えば、もし京大生が屋内喫煙所の設立を要求してクスノキを占拠した場合。これはよく施設の責任者が対話に応じるべきと考えられることが多い。
現実の例からみれば、2の場合がほとんどではある、一見施設の目的を妨害することに繋がっていないが、現実として、異見を持つ構成員は活動主体によって攻撃されることは稀ではない。もし上智大学や仏光寺でそういうことが起こるとしたら、ローマ法王の側に立つクリスチャンや寺院にライブが欲しくない信徒はある程度で非難されるであろう。いろんな施設は実際社会の内にあるので、当然その社会責任は誰によっても主張できるが、主張されるものの合理性は、主張者・団体のみが決めるわけではいけない。そして、大学の場合は多重の責任があることも想定されうる、その多重の責任が衝突することがある。例えば同志社大学は日本の大学として日本社会に、同志社教会の責任者として日本基督教団に、キリスト教学校としてキリスト教徒全体およびイエス・キリストに責任がある。責任の異なる側面と見方から異なる意見が主張される場合、もし誰でも自らが絶対正しいと思うなら、終わりのない闘争になるばかりであろう。同志社大学の小原克博学長はキリスト者でありながら、常にTwitterで戦争扇動・少数者差別的言動を発信しまぐる在大阪中国領事館の薛剣氏と面会したことで、もしある団体が「小原学長はキリスト者の責任を負え、ウイグル人ジェノサイドの擁護者と話すな」と主張し、別の団体が「同志社は経営戦略として積極的に中国体制側の機関と交流協力を求めるべき、カネは教会を繁栄にする」との主張で、お互いを排除しようとしたらどうなる?

KUVASPの占拠の性質

おそらく今までの議論で無視されてきた背景がある、それは、現実として、特定一連の左翼的観点を持つ人且つこのような人たちによる団体と繋がりのある人以外、構成員であるのにも関わらず、京大で主張をし、活動するスペースはほとんどない。京大には言論の自由が集団の所属と人脈によるものであり、実質的に限定されていることを認識しなければならない。
クスノキあたりの占拠はKUVASPが初めてしたわけではないけど、確かに前に述べた2の性質の長期占拠はKUVASPがはじめである。加えて世界中に人道に対する犯罪はあちこち起こっているけど、日本でパレスチナ問題だけが流行るというのも現実であるということで、政治活動に関心がない人にとってパレスチナ関連団体にまるで何らかの特権があるように見えるかもしれない。まだ、クスノキ前は演説よくあるが、常設な政治活動の場所と認識されていない。いわゆる政治に関心ある人≈特定左翼(排他的、不寛容)≈パレスチナ連帯という認識はおそらく多く人の頭にあり、要するに一般人にとって①自らにはどういうアイデンティティがあるか②そのアイデンティティとパレスチナ連帯の関係というのを、KUVASPが回答できなければこの対抗は続けるであろう。KUVASPによる占拠は特にクスノキへのアクセスを完全にブロックしていないので反対する理由もないと思うが、ただ時期を示さないという点は慣例的に大衆に受け入れがたい。
結構面白いのは、KUVASPは実際学外者の疑わしい団体などではないのに、「クスノキ返せ」さんにとって異物になる。それはなぜなのか。KUVASPが「クスノキ返せ」運動に「異物」と判断されたのは、内容よりも形式からかもしれません。数年前、京大で「景観同好会」という団体は、おそらく昔の京大の雰囲気を再現しようとし、学生運動期の古ビラや新聞を復刻して数ヶ所に掲示した。もし内容にもかかわらず、活動家がいるということ自体が大学の景観や日常の一部になりうるとすれば、KUVASPが必ず異物であるのに限らない。ただ今回はそういう時代になったからか、パレスチナ連帯はいろんな大学でチェーンストアと思わせる形式で展開され、「札幌にイオンモールあるのになんで旭川で開店しないの」のように、多少そういう外来物感がするだろう(関西はこういう活動において東京の川下にあるということもある)。日本の政治活動はよく一般人に「われらの小さな平和」と「世界の大きな平和」の関係を認識させるのに失敗している、すなわち、「歴史の外にいる日本」という主流世界観に対抗できない;KUVASPもこの点においてなかなか成功とは言えない。もしくは、大学キャンパスでイスラエル側のことを主張する人・団体が今の時点でいないので、現実に「敵」がいないことで、現実からの離脱感が生じたかもしれない。

「日本人だから責任が……」という言説

半人さんは「そのために遠く離れた地域・一市民である我々ができることは何だろうか。」という質問を出したが、それはパレスチナに限らなく、あなたたちが中国、北朝鮮、ロシア、イラン、ミャンマー、シリア、スーダン……に何ができるとの質問である。本当にそう問えば、半人さんの言ったようなヨーロッパの社会福祉、ただで大学いつでも通えること、そして日本でいわゆるダメ人間になっても餓死に至らないというのは、グローバル資本主義というものの結果である。グローバル資本主義とは、発達国家が工場などを第三世界に移転し、そこの独裁者や寡頭が協力し、そこでのあなたたちみたいな若者とその家族を死ぬまで働かせるということ。そこから皆さんの大好きなZaraとかのおしゃれ服が来たのである。第三世界の流血と涙で富裕国家の若者は寝そべりとかを楽しんだり、世界中を旅するアナキストとかになりうるんだ。なので、昔の人々は、マタイによる福音書19:16以下言うように、「イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」」の通りに、すなわち、修道院に入ることにした。修道士か革命家かになるとは現実的ではない以上、人間はすべて生きている限り罪を犯さないの有り得ないことを覚え、何らかの行為によって、自分が他人より正義になるとの考え方をやめるというのは誰でもできることである。正直に、私たちは何もできない、ただし、まるで何かができるように、積極的に行動する必要がある。そして、良好な意図からでも、自分の誤解や騙されることによって、その行動が悪い結果をもたらした場合、その責任を取る。「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」(ヘブライ人への手紙13:3)という聖書の言葉を常に念頭に置くべき、かつてのガリバルディも、イタリア人だからなんだかんだからウルグアイのために戦うのではなく、自分も東方共和国の一員として戦うわけでした。バイロンも、イギリス人ではなくギリシアとしてなのである。反戦の闘争においても同様、その闘争においてギリシア人、ヘブライ人、そして日本人はない。反戦とは未来起こるだろう戦争を防ぐ運動であるので、現在で戦争に向かう政府に対する反対活動になるべき。日本当局は戦争に向かっていない以上、向かう可能性もない:三島由紀夫氏の言う生命以上の価値より昼飯が大事と自衛隊員たちが考えたから。仮に日本政府が戦争を進んでいるという判断から、具体的行動をし、結局その判断自体が誤っているので自分の行動が戦争犯罪人への加担になった場合、どうやって責任をとる?例えば、もし第二次世界大戦の時、アメリカ政府こそ東亜の自由・自治を破壊する悪者であると考え、アメリカによる中国支援に反対・妨害活動をする人がいるとしたら、その人も戦後自分が日本軍の戦争犯罪に加担していないと言ってはならない。
人は正しく生きることができない、それ以上、どうやって正しく生きるのできるかすら知らない、しかし、人は常に正しさを探求する。正義に対する完全に麻痺しているか、いわゆる正義中毒になるか、中途半端、選択的な正義よりはましである。


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