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第四話 強い人弱い人 後編

床を染める黒い液体。それが血液だという事はすぐに気づきました。
少しの鉄の匂い。乾燥して高質化したその端々。それが床一面に広がっているという事だけが「これが血液であるはずがない。死んでしまう」と思わせるだけで、視覚と嗅覚は確実にそれが血液であると訴えかけるのです。

壁を覆いつくすような苔と同化する文様は、カビの匂いと肌に張り付くような湿気によって不気味に光り輝いています。
私は今、父の弟、私にとっては二人目の「おじさん」と面会しています。
二人目のおじさんはとても美しい御顔立ちをされていました。肌は透き通るような白さ。細身で筋肉質で。イケメンなのに気取った感じもなくて。表情も口調もとても優しくて。
年齢はよくわかりませんが、三十代前半でしょうか。

もしそうなら。

「そうだね。確かに十五年以上と聞けば長く感じるかもしれないね」

暗くて。誰もいない空間でただひとり。

学校は?友達は?

そこは羽田家の母屋横に建てられた古い蔵の地下。
どうやって中に入ったのかはわからないけれど。
固く閉ざされた、扉のない鉄格子。
神座かみくらの間と呼ばれる地下牢の中に。
私のおじさんは十四歳からずっと閉じ込められていたのです。

「カミクラと呼ばれる儀式があってね。長い間行われてなくて、父である先代当主がずっとひとりで守ってたんだ。ボクが当主になってすぐ父は他界したんだけれど。ボクの使命は父と同じように、神座の間を守り、ボク自身の自由を奪うこと。ただそれだけなんだ」
「わかりません。これが何の宗教儀式かなんて私には興味もないです。でもこれは、私、こんな....…これは人権侵害です!ただの虐待じゃないですか!」
「私を解き放てば、全人類が絶滅したとしてもかい?」

洗脳。
私の脳裏にその言葉がよぎりました。
彼はきっと洗脳されている。全人類が絶滅するなんて話を、まともな人間が信じるわけがない。
父の弟であるこのおじさんは、きっと家族から虐待を受けている。洗脳されている。

そんな常識的思考。

「そうだね。確かにボクは洗脳されているのかも知れない。けど虐待というのは間違いだ。それは彼らの名誉のために否定させてくれ」
心を読まれた。おじさんは私の思考が手に取るようにわかっているようでした。
「ボクはね、ボクの頭の中に住んでいるバケモノと戦っているんだ。このバケモノを外に出さないために、こうして神座の間に引きこもっているんだよ」
おじさんは傷だらけの細い体を奮い立たせ、真っすぐと私と向き合うように姿勢を整えました。

その姿に、私は何故か神性を見た気がしています。
全ての傷、それは全ての人々の苦しみや悲しみ。
それらを一身に引き受けた神々しい覚悟のようなもの。

「ネクロノミコンと呼ばれる魔導書が、昔この国に持ち込まれたんだ」
「父から少しだけ、その話は聞いています」
「うん。このネクロノミコンなんだけどね。実はその魔導書自体にはそれほどの脅威はないんだ。まあ色々と活用はできるんだけど、それは本質じゃないんだ」
ネクロノミコンの本質。そんな事よりも私は今すぐこのおじさんを助けたい。しかし彼の献身的でさえある言葉のひとつとして、私にそれを遮る事などできはしなかったのです。

「ネクロノミコンはね、人間の脳内で育ち、熟成する。わかるかい?ボクの脳そのものがネクロノミコンなんだよ」

私はその時、ある事実を理解しました。
いいえ、ずっと気づいていました。ネクロノミコンの話を喫茶店で聞いたあの時から。
私は気づいていました。

そして、考えないようにしていました。

認めたくない。
このような非人道的な惨状を、一体誰が生み出したのか。

認めたくない。

だってそれは。

「それは違う。キミのお父さんのせいじゃない。誰かがやらなければならなかった。ただそれだけなんだ」

父は逃げた。
この環境から、一族の呪縛から父は逃げた。

それを否定する事は誰にも出来ないのかも知れません。
それでも。

「ボクはね。こうなる事を望んでいたんだ。だから兄さんがボクをこの状況に貶めたわけじゃない。どうかその事はわかって欲しい」

父は逃げた。
弟を犠牲にする事、それはわかっていたはずなのに。
私はその事が許せずにいました。
誰だってこのような環境に閉じ込められる事は怖い。
私もきっと逃げ出したくなる。

本当に?

私は千夏の為に死ねる。
あの日、千夏を救うために訪れたミスカトリック大学病院。
異常な空間の中で、確かに私は自身の命を投げ出した。
理不尽な条件のもと、それでも私は千夏を救いたかった。

私なら逃げない。

絶対に逃げない。

ましてや家族を見捨てて自分だけ助かるなんて。
私には絶対に出来ない。
だけど父は逃げた。
あんなに優しい父が逃げた。
全身傷だらけで、あばら骨が浮き出ているこの人を犠牲にして。
彼が何と戦っているのかはわからない。
けれど、床一面を黒く染めた血液のあとが、その激しさを物語っている。

私はこれから先、父をどんな顔で見つめればいいのか。

私は地下鉄の事件が起きたあの日からずっと、先の見えない暗闇の中をさ迷っている。そんな感覚が私を襲いました。

カシャン。

突然おじさんを繋ぐ鉄の鎖の音が響きます。それはまるで蛇のようにクネクネと蠢いています。

「まずい。由紀恵さん、今すぐウメさんを呼んできてくれ。何故だろう、こんな事今までなかったのに....…うぅ....」

突然苦しみだしたおじさんの、目や耳、口といった体中の穴という穴から、赤黒い粘着性を帯びた液体が噴き出します。
「早く行くんだ由紀恵さん!」
私は慌てて走り出そうとしました。
するとその背後から、誰かが私を呼び止めたのです。

「何故逃げるの?少し話さない?」
「駄目だ!早く行くんだ!大婆様!ネクロノミコンが暴走した!来てくれ!」

私が振り返るとそこには。


赤黒く光り、薄笑いを浮かべた、私がじっと私を見つめていたのです。

羽田家門前。

元八咫烏諜報員の男は、かつての部下であった黒野の強烈な蹴りによって体の自由を奪われていた。
心滴一閃しんてきいっせん。心臓を守る骨や筋肉を無視し、直接心臓にダメージを与え動きを止める。八咫烏諜報員ならば誰でも使える技である。
そのような基礎的な技で膝をついた男。それはブランクのせいであったのだろうか。
男は動かぬ心臓を抑えながら、地面に膝をついている。
「よっさん!逃げろ!」
そう叫ぶ事が出来たのは驚異的な事ではあったが、それは幸運とは呼べなかった。
何の意味もなかった。
羽田家長男である良晴は、その言葉に応える事は出来ず、ただ地面に伏しているだけであった。
「よ...…さん」
動かぬ心臓は男の発声をも止めた。
黒野は良晴の脊椎を破壊すべく、空中から急降下し膝をつき出す。

ガンッ

誰も予想していなかった金属質の打撃音。
驚く黒野は素早く後方へと飛びのいた。

「お前は...…?」
良晴を守るようにそこに立っていたのは、喫茶ねこのめのマスターであった。
いつもの軍服姿はこの場に相応しいようにも見えるが、黒野の攻撃を防いだのであろうその右腕は、異常な形状になっている。軍服の下から膨れ上がったその腕は、まるで盾のような形状をしていた。
中に何か仕込んでいるのか。

「本当になまっていたんですね。正直私なんて着いていく必要ないと思ってましたが」
「す...…ま...ん」
「まだ珈琲代のツケも払ってもらわないといけませんので」
マスターは改めて黒野に視線を移し、盾と化した右腕を構える。
「伝説の八咫烏とお会いできて大変光栄なんですが。申し訳ない、友人二人、守らせて頂きます」
「誰だか知らないがいい度胸だな」
黒野はスッと右腕を上げる。すると仁王像が立つ羽田家の門前その上方から、数人の黒装束の男が現れた。

黒野を合わせて全部で七人の黒装束。
男達は素早く展開し、あっという間にマスターを全方位から攻撃できるように取り囲んだ。
「何を仕込んでいるのか知らないが、舐めるなよ?そこに這いつくばっているクズ二人、守れるものなら守ってみろ!」
黒野の合図で同時攻撃をしかけてくる八咫烏。
その右腕に仕込んだ盾ひとつでは、どう考えても全員を救えるはずがなかった。

それが「仕込んだ」「盾ひとつ」であったならば。

巨大な何かに一瞬で変化したマスターの右腕の一振りは、取り囲む男達を吹き飛ばすには十分な威力であった。
「カラスの視力は夜になると落ちる。そういう事ですかね?いつから私がニンゲンに見えてました?」
吹き飛ばされた黒野は素早く体制を整えてはいるが驚きを隠せないでいる。
「貴様、辺獄の住人か!?」
「ええ、そうですが」
「我ら八咫烏の前で正体を明かすとは。貴様そんなに死にたいのか」
黒野は印を結び呪文を唱える。それは高音と低音が同時に発せられているような不思議な音色であった。
脳内の奥にまで響き渡るその音は、マスターを縛る巨大な縄のような幻覚を生み出す。
ばくしてぜよ。八咫烏縛法不動の御前やたがらすばくほうふどうのおんまえ
巨大な縄はマスターの全身に絡まる。その縄は自由を奪うだけではなく、マスターの肥大した肉体に深く食い込み、今にも爆発しそうである。

「それは無理です」
しかしマスターの右腕に現れた巨大な口が、絡まる縄を徐々に食べつくそうとしている。
やがてマスターを締め付けていた縄は全て消えてしまった。
「私ね、神社仏閣巡りが趣味なんですよ。その程度の縛法は、正直言って神社仏閣の結界術と比べて、ちょっと幼稚、ですね。簡単に食べれる」
人間の姿に戻ったマスターは、少し黒野を挑発するように笑った。人間の姿に戻った、という事自体が、黒野の神経を逆なでするには充分であった。

黒野は一言も発せず、懐から短刀を取り出しマスターに襲い掛かる。マスターは構える事さえしていない。その姿は黒野の意識を「この男を殺す」事だけに集中させる。
「マスターご苦労さん」
黒野は完全に虚を突かれた。
心臓の動きを封じられていた男が黒野の攻撃からマスターを守るように現れ、その上段蹴りは激しく黒野を吹き飛ばす。
カウンターを喰らった形になった黒野は、まるで巨大なダンプカーに跳ね飛ばされたかのように、空中を舞い羽田家の門に激突し、そして動かなくなった。

「マスターすまないね。おかげで助かった」
「あの程度の蹴りで動きを止められるなんて。駄目ですよ。たまには運動しないと」
「うん。そうだね」

意識を失った黒野を囲むようにして黒装束の男たちは集まり困惑している。恐らく彼らは黒野の部下なのであろう。自分たちの上司である黒野が簡単に倒されてしまった。その敵を討つ為の行動に移るには、あまりに敵の情報が足りなかった。
人間の姿に擬態した辺獄の住人。元八咫烏の男。その戦闘力の底は未だ見えない。
いやそれよりもまず、自分たちは何故この男たちを襲おうとしているのだ?
良晴はかつて羽田家の宿命から逃げた男。
元八咫烏の男は自分たちの組織を抜けた裏切り者。
そのように考える事は確かにできる。
しかしだからといって、彼らを襲う事は自分たちの職務ではない。

何故我々はこの男と戦わねばならないのだ?

そのきっかけ。その記憶がどこにもない。

「これは何の騒ぎか!この大うつけ共があ!」

そこに現れたのはウメであった。
「こうも簡単に敵の侵入を許すとは!ぬしら全員修行不足にも程がある!もはや誇り高き八咫烏の名を名乗るでない!」
ウメの一喝により、黒装束の男たちは直立不動となっている。
「黒野の坊主は捨て置け!おのれらは早う侵入者を追え!」
男たちは顔を見合わせる。一人が勇気を振り絞りウメに対し質問した。
「指導武官殿!発言許可願います!」
「なんじゃうつけ」
「我々たった今、目の前の侵入者と戦闘していたところです!」
ウメは怒りの眼で激しく叫んだ。
「大バカ者めがあ!その者たちはただの痴れ者!侵入者は既に羽田の森へと逃げておるわ!早う追わぬか!!」
逃げるように散開する黒装束たち。
「やあウメさん。やっぱり誰かに操られていたね彼ら」
「黙れ痴れ者」
その後方。

羽田由紀恵はウメの後方に立っている。

「やあ由紀恵ちゃん。どうだった?」
「由紀恵、大丈夫かい?」

由紀恵はゆっくりと前に進む。
「由紀恵御嬢様。何も心配は要りませんゆえ」
「ええ。ありがとうウメさん」

由紀恵はゆっくりと前に進む。

「由紀恵」
娘を心配して近寄る父親。
やさしく自分を大切に育ててくれた父親。

その父の頬を、由紀恵は激しく叩いた。
「最低」
頬を抑える父に一瞥もくれずに、由紀恵はゆっくりと森に消えていった。

「どうやら悪いほうに転んだか」
良晴の肩に手を置いて、娘に頬を叩かれた男を慰める男。
その表情はあくまでも気楽なものであった。
「まあ、行先はわかってるから。反抗期が来たと思っとけばいいよ」
「そんな簡単な話じゃないさ..…」
落ち込む男と慰める男。それを見守る喫茶店のマスター。

その面前に、ウメは小さな体で仁王立ちしている。
「ぬしら痴れ者を御当主様がお呼びだ。緊急の儀である」

娘の行方を心配する良晴をなだめながら、男たちは羽田家の敷地に足を踏み入れるのであった。

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