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第一話 許されざる者 前編

「パンダはかつて未確認生物だったのよ」

大学受験を来春に控えた夏の日。
友人の千夏の家で山積みになった古文の過去問を前にして、頬杖をつきながら千夏はそう呟きました。
「何の話?ねえ千夏、真面目にやろう」
「いいのいいの。どうせD判定だから」
千夏のほうから勉強しようって誘ったのに。ものの30分で千夏のペンは止まりました。
「それよりさ、どう思う?パンダって宇宙人なのかな?」
千夏のその突拍子もない発言に、私は呆れを通り越して思わず笑ってしまいました。
「ちょっと止めてよもう。そんなわけないじゃない?」
「そうかなあ。でもさ」

大学受験を控えた夏の日。

千夏の何気ない一言が、私が不思議な世界へと足を踏み入れてしまう未来の暗示になるなんて。
その時の私は知る由もありませんでした。

「でもさ。由紀恵の叔父さんって、なんかパンダみたいじゃない?」

父は地元では結構有名な自動車工場に勤めています。
海外に輸出する車のエンジン加工が主な仕事だと聞いています。
一度工場から出荷されると、エンジン部品はコンテナ船に運ばれすぐに海上へと向かうそうです。
だから工場で不良が見つかった際、簡単には出荷された部品の回収ができない。
出荷してしまうという事は「不良は絶対にない」という保証をしてしまう事と同じ。「そのストレスというのはね、毎日が大学の入試みたいなものなんだ」父はそんな話をしながら「だから由紀恵と父さんは仲間だとも言えるね」と言って、よく私を励ましてくれました。
仕事は忙しく、一緒に遊んだり旅行に行ったりといった記憶はあまりありません。
だけど私は父の仕事に対する姿勢や普段の言動などから、充分と優しさと愛情を注がれて育ってきたと、自信をもってそう言えるのです。

そんな父には異母兄弟がいました。
私たちはみな「おじさん」と呼んでいました。何故か父も母も、私におじさんに関する事は名前はおろか何処に住んでいて何をしている人なのかさえ、決して教えてはくれませんでした。
父はこう言います。
「あの人とあまり仲良くしてはならないよ」
そしてこう続けるのです。
「でも由紀恵がどうしても困った時は、必ずおじさんが助けてくれる」
「ねえお父さん、言ってる事矛盾してるよ?それにおじさんの連絡先も私知らないのよ」
父は「わかるわかる」といった表情で頷いて、少し難しい顔をして言いました。
「確かに矛盾しているんだけど。多分その時がきたらきっと理解できるよ」
多分、きっと。
父にしては煮え切らない言い方で、おじさんに関する話はそれっきり、私もしつこく聞くこともなくその話は終わりました。

それが私が知るおじさんの全てでした。

大学受験当日。

ポテトサラダとマカロニサラダ。通称マヨコンボ。
ミートボールにミニハンバーグ。通称茶々コンボ。
赤しそと梅干しを混ぜたご飯。通称熱き血潮。
これらは全て、母が命名した私の好きなお弁当の名前。
その日の私のお弁当は、それらが全て詰め込まれた母のスペシャルお弁当でした。
「おっしゃ由紀恵できたで!今日は本番やからね、あんた頑張りよ!」
「ありがとう母さん。じゃあ行ってくるね」
「全力全力!全力やで!信じてるで!」
手を振って家を出て、元気に声をかけてくれる母がすでに、感極まって泣いていることを背中で感じながら、私は受験会場へと向かいました。

雪は降っていませんでしたが、街の人々が吐く息は白く。私は両手に息を吹きかけながら地下鉄へと続く階段を降ります。
制服のスカートの丈は決して短いほうではないのですが、その日はとても寒く、下にジャージを履いてくればと少し後悔していました。
改札を抜けてホームに並ぶ人々の後方で、私はスマホをチェックしながら電車の到着を待ちます。
就職が決まった千夏からのLINEを読みながら、暫くすると電車がやってきました。
通勤通学、また私と同じ受験生で溢れかえるホームの人々の流れが電車のドアに吸い込まれようとしたその時。
その人の流れから私をまるで救い出すかのように、誰かが私の腕をつかんだのです。
周りの人々が怪訝な表情をしながら私たちを避けるようにして電車の中に消えて行きました。
私は少しの恐怖と驚きと恥ずかしさで顔を赤く、それでいて怒りの表情でその人物を見上げてみると、それは私が知っている人の顔だったのです。
「おじさん?」
「やあ。取り合えずこっちにきてごらん」
久しぶりに会ったおじさんは、少し強引に私を電車から引き離すかのようにして、ホームのベンチへと私を誘導しました。
あっけにとられる私を見送るかのように、受験会場へと向かう電車は動き始めます。
「あの。おじさん。いきなりなんですか?」
「ごめんね本当に。でもキミはあの電車に乗っちゃダメだし、あの電車は受験会場にはつかないんだ」
私が呆れた顔で「何を言ってるんですか?」と言うよりも速く、「西口にタクシーを待たせているし運転手さんに代金も渡してある。受験会場にはそのタクシーで行こう」おじさんは再び私の腕をつかんで、駅の西口にある広場へと向かったのです。
「やめてください、どういう事なんですか」そう言って抵抗しようとしたのですが、何故か体の力が入りません。足に力が入らないような、まるで重力が消えてしまったかのような感覚が私を襲います。
駅の階段に差し掛かり、ふわふわとした感覚のまま階段を登ろうとしたその時、背中に恐ろしい悪寒が走ります。
それは発車した電車の後方から発せられた視線のようなものでした。
私は反射的に振り返り、その悪寒の発生源を見つめようとしたのです。
「見ちゃだめだよ」
おじさんがそう言って私を制しようとしたのですが、それは間一髪間に合いませんでした。

そして私は見たのです。
おじさんが私を連れ去ろうとしている理由。もしくは私を何かから救おうとしているようにも感じた理由。
それがそこにあったのです。

それは穴でした。
それは宇宙でした。
いいえ銀河でした。
蠢く穴は広がる宇宙であり回転する銀河でした。
そして穴はさも当然であると言わんばかりに、自信に満ちた表情で電車を追いかけて行きました銀河。
宇宙は脳細胞の連結を、銀河はニューロンの拡散を、私はブラックホールと呼ばれた神々の穴へ。穴は私であり千夏はスペースシャトルでけん玉をしています。けん玉。いいえ金魚すくいかしら。そう。楽しかったなあ。りんご飴がおいしくて。イカ焼きが放物線を描きながら夜空を赤く染めて。
パンダは未確認生物だって誰かが言ってたのを私は確実にしっている。あなたは?私はとても気持ちがいいの。だって今日は大事な受験のマヨコンボの日なのだから.........

「戻ってこい」

おじさんの声が頭の中で響き渡り、すでにタクシーの中にいた私は、おじさんの両手で頬を優しく包まれていました。
「大丈夫、キミはアレが見えていたのだから。見えるものはそんなに怖くはないからね」
私は混乱する頭の中を整理しようと試みたのですが、それはかないませんでした。突然の不思議な体験は、その時の私には理解はおろか、どう反応していいのかすらわからなかったのです。
「とにかく受験会場に向かいなさい。その為にずっと頑張ってきたんだから」
動き出したタクシーの中。
私はあれほど混乱していたにも関わらず徐々に平静を取り戻していきました。「大丈夫」おじさんのその言葉が、私を不思議と落ち着かせたのは確かです。
「受験ですか?」
タクシーの運転手さんが話しかけてきました。
「はい」
「お嬢さんツイてますよ。普段ならこの時間渋滞なんですけどね」
タクシーは渋滞はおろか信号にも捕まることなく、順調に受験会場へと向かっていました。
「おや、降ってきたね。まあ今日は寒いからねえ」
窓の外を見上げると、灰色の空から真っ白な雪の綿がふわふわと舞い降りていました。
「いつまでこの寒さ続くんだろうねえ」
「そうですね」

その日。

大学受験のその当日。
その日は私の人生にとって、とても大事な日であったと私は思います。
大学に合格できるのか。これまでの努力は無駄にはならないか。
私の将来は。

いいえそうではないのです。
そう。

試験が終わり、受験会場を後にする私の目に飛び込んできたその、ネットニュースの見出し。
それが、私の人生を変えてしまったという事。
確実なものなど何もないこの世界で、それだけは確かな事なのです。

衝撃 地下鉄で無差別殺人
死傷者多数 犯人死亡か

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