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寄稿シリーズ03 魔術とは


真守流魔道 魔術師カニカマ
ゼロから魔術を学び 今魔術師としての長い道程を歩き始めた。自身を普通の凡人と呼ぶが、魔術訓練に向き合う姿勢は未だ真守流魔道ダントツのNo1。今また新たな壁に立ち向かい日々精進中。

振り返りと自分の認識の再確認とかその辺りを一度まとめてみようと思いつつ…
気付けばなんか怪しい宣伝みたいな文章が出来ました!

お焚き上げ代わりに投稿!
しようとしたら文字数多過ぎとエラーさんに怒られた!

一気に何かが変わるというようなことはない。
しかし視点や見えてくるものは変わる。
ただしこの変化は魔術でなくとも起きうるものであり、魔術とはあくまでこの状態に至るまでの道の一つでしかない。

未熟、非才、怠惰な身ではあるが、現時点で感じている魔術とは何かと問われれば隠れた選択肢の見つけ方だと私は答えるだろう。
この先に進めばまた違った点があるのかもしれないが、魔術という響きから連想されるような効果は現時点では多少運が良くなった程度でしかない。(宝くじが派手に当たらずとも半分くらいは返ってくるとかそういったレベル。
別にそれを狙ったような儀礼はとくに行ってはいない。宝くじを買っている時点で期待しているだろうとかそういうのは置いておく。)

基本は自分の環境を理解し、周りで起きている事を観察し、物事の順序を冷静に観察する。
そうした観察を続けていくと、『今この瞬間』に至るまでの流れというものが何となく感じられるようになるだろう。
どうしようもないこともあるだろうが、介入することが出来たこともあるはずだ。
そういった事を一つ一つ見つめていく中で、取れるべき選択肢は存外多かったという事に気付けるのではないだろうか。

占術についても私のスタンスとしてはこの考え方がメインとなっている。
偶然性に任せて導いた結果から気を付けるべき点や注目すべき点を見出し、当てはまる事柄(占いを行った時点で恐らくは無意識にそういった出来事を意識するようになる)に遭遇した際により良い選択を行えるように手助けをするツールだ。
自分ではまずしないような考え方、対応を人格を介しない偶然による結果によって意識させる技術である。

ここまでの文はあえて神秘性を排したスタンスで記述しているが、そういった不確定要素を抜きにしてもメリットのある技術であると思う。
そしてここにプラスアルファされる神秘性、信仰がどの程度影響するのか。
これに関してははっきり言ってまともに論ずる事が出来ない分野である。
証明のしようがない。

そういった神秘性をことさらに求めるのならば、それはまず自分一人食べていけるだけのものを確保した上で行うべき内容であり、不確定要素に全振りをする人間にはおススメ出来ない。
これはあくまで夕飯のおかずを豪華に出来るかどうかといった類のものであって、そもそもパンすら用意できないのならばまず地に足を付ける事から始めるべきだ。

そこをクリアした上で魔術修行を行い、身に着けた技術を試していく。
これはある種、自分の内面に美術館や映画館を持つような感覚であり幸福感や満足感に溢れる経験でもあるが、それ故に自制と戒めが重要にもなってくる。
この辺りは実際にやってみる他ないが、人間の脳は思ったよりも簡単に揺さぶられるという事を実感できるだろう。

魔術修行や実験において見えてくるものが正しいのかどうか、それは究極的には自分の中でのことなのだから決めるのは自分である。
そしてその判断を下す中で大切なところ、根っこの部分がぶれないようにしておく必要がある。
修行こそある程度進んでいるが、それでも自分の根っこはしっかりしているか、変な感覚だが問題はないだろうか、そういった疑問や不安は尽きない。
しかしそういった面もあるが、それ以上に心地よいところもあるのだ。

それは別に真理がどーのこーのとかそういう大袈裟なものではなく、自己満足ではあるが充足感と落ち着き。
そういったごくごくありふれたものである。
別に魔術でなきゃダメってわけでもないが、魔術でもいいんじゃあないか。
そんな感じで趣味は魔術でござい、といった顔で日々を過ごしている。

魔術師カニカマ

古典的な習わしに基づくならば、カニカマという法名は如何にもふざけている。
しかしそこに至る『行間』を推察して欲しい。
大袈裟に振りかざした拳を彼は必要としていない。
魔術師としての彼の両手が果たして何に使われるのか。
その覚悟を持つ事は、そう簡単じゃない。

真守流魔道のサポートは喜んでお受け致します👍