見出し画像

松下政経塾の功罪

1 はじめに

本報告では、松下政経塾の設立経緯や政経塾関係者のたどってきた道を振り返るとともに、松下政経塾の功罪を明らかにする。

2 松下幸之助とは

本章では、松下政経塾の創設者にして初代塾長である松下幸之助について通観する。

2.1 生誕から終戦まで

松下幸之助は明治27年(1894 年)11 月27日、和歌山県海草郡和佐村(現・和歌山市)に八人兄弟の末っ子として生まれた。家はもともと裕福な地主であったが、父が米相場で失敗したため、幸之助は尋常小学校を 4年で中退し、9歳で大阪に丁稚奉公に出た。火鉢店や自転車店に奉公するうちに商売について学んだという。
16歳の時に大阪電灯(現・関西電力)に入社。在職中に二股ソケット(注1)を考案し、大正7年(1917 年)、自宅で妻むめのとその弟井植歳男(後に三洋電機を創業)とともに製造販売を始める。翌年には松下電気器具製作所(現・パナソニック)を創業、自転車用ランプや電気アイロン、ラジオなどを製造販売した。
その後、順調に事業を拡大したが、第二次世界大戦の戦局悪化に伴う軍の要請に応じて松下造船、松下飛行機を設立し、木造船56隻、木造飛行機4機を製造した。軍部への協力をしたことから、戦後一時期GHQ より財閥と見なされ、松下電器は制限会社に、幸之助自身も公職追放(注2)の処分を受けた。松下造船・松下飛行機の債務が残ったため、戦前2000 万円(今の価値にして2000 億円ほど)あった個人資産もマイナス700万円となり、物品税(注3)も収められない状況に陥ったことから「滞納王」と呼ばれたが、数年後には全国長者番付でトップに立った。以降死去する前年の昭和63年まで一度も十位以下に落ちたことはなかった。

2.2 PHPの思想

PHP とは、戦争による国土と人心の荒廃を観た幸之助の「物心一如の繁栄を通して平和と幸福を実現していく」という願いを表す「Peace and Happiness through Prosperity (繁栄による平和と幸福)」の略である。幸之助は1946 年にPHP 研究所を京都市南区に設立した。戦争を通じて得た「いくら商売が成功しても政治がコケれば社会全体が悪くなる」「右手にそろばん、左手に政治」という幸之助の考えのもと、PHP研究所は月刊誌『PHP』をはじめとする出版事業と、政策シンクタンクの二つの役割を担った。

2.3 松下政経塾の創設

このように松下電器においてモノづくり、PHP を通じて理念づくりとその実践活動をしてきたが、政治は幸之助の願う方向に進まなかった。そこでたどり着いたのが、我が国を導く真の指導者を育成する機関、松下政経塾の設立である。
幸之助は将来を担う若い有為の政治家を育成したいと願い、1979 年に松下政経塾を設立したが、幸之助が急激に政治に傾斜していったのは1970 年代前半と言われる。当時日本は高度経済成長期・安定成長期にあった 一方、石油危機や狂乱物価といわれるほどの地価と消費者物価の上昇を経験した。この時期には減税政策も推進されたが、その結果歳入が伸び悩み、歳入不足補填のため赤字国債の発行に依存することになる。この赤字国債に危機感を募らせた幸之助は『崩れゆく日本をどう救うか』(PHP 研究所、1974 年)を著す。これに共鳴したソニー社長盛田昭夫氏との対談をまとめ『憂論―日本はいまなにを考えなすべきか』(PHP研究所、1975 年)を出版した。その後も『人間を考える―新しい人間観の提唱』『21世紀の日本』など を刊行している。
政経塾には松下幸之助の像と明治維新の志士(注4)の像という2つの像が投影されていると言えよう。政経塾 に入る者にはPHP 運動に始まる理想の国家経営の夢を実現すること、すなわち松下幸之助の意思を涵養し継承することが求められる。
そのためには大名の子ではなく、幸之助のように苦労しながらも一代で上り詰めるような、名もない人材が好まれた。また、幸之助は「一人でもええ。この塾から本物の政治家が一人出ただけでも、僕は満足や。」と語ったが、その「本物の政治家」とは国家百年の大計を持った政治家である。目先の利益や小手先の改革を行うのではなく長期的展望を持って国家を経営するといった、内面においても維新の志士のような人が求められた。
また、政経塾が設立された1979 年には、経済界に教育ブームが起きている。

ダイエー(注5)の創業者中内は流通大学の設立を発表し、88年に流通科学大学として開学。トヨタ自動車による大学構想も明らかとなり、81年に豊田工業大学として開学された。しかし政経塾は塾生に支給される研修費、少人数のエリート教育、政治家の養成に主眼を置くなどの点で他に例を見ない教育機関である。

3 松下政経塾での生活と課程

3.1 入塾と政経塾の生活
政経塾の応募できるのは22歳から38歳の者(当初は25歳以下)で、性別・学歴・国籍は問われない。当初は定員30名とされていたが一期の 23名を頂点に定員を超えることは一度もなく、現在では定員制は廃止され年平均 5人程度が入塾する。塾生には研修費として年300~500 万円ほどが支給される。
政経塾は神奈川県茅ケ崎市にあり住まいは政経塾敷地内の寮であり、既婚者も入寮を求められる。寮費は月4000 円ほどで、一人当たり個室 2室使用できる。
食堂も完備されており、食費は週5日3食食べても月2万円以下である。

日本経済新聞・前進を読む会             令和3年2月24日_3_Image20

日本経済新聞・前進を読む会             令和3年2月24日_3_Image21


『松下政経塾憂論』より

3.2 政経塾での課程

政経塾は2年課程と4年課程があるが、どちらも最初の一年は座学を中心とする基礎課程である。この一年では全寮制のもと、塾生同士で切磋琢磨しながら理想社会のビジョンをつくり、その実践者になるための志を固める。
朝六時に起床し、全員でラジオ体操・掃除・海岸を3km ジョギングした後に朝食。朝会では塾是・塾訓・五誓を唱和し、塾歌を斉唱、毎日一人スピーチを行う。

その後外部から講師をお招きしての研修が始まる。リベラルアーツとして政治思想史を橋爪大三郎東工大名誉教授、憲法を小林節慶応大名誉教授、その他山下泰裕氏や村上憲郎氏、増田寛也氏などが講壇に立つ。また伝統精神を学ぶ機会として茶道・剣道・書道の研修もある。夕食後は自由時間であるが、翌日の研修の準備や塾生同士の飲み会で議論を交わし一日が終了する。
二年目以降は現地現場でプロジェクトに取り組む実践課程である。この期間は個別テーマに基づく研究・実践活動が展開される。その成果は塾内の審査会やフォーラムの場で発信される。

4 松下政経塾の功罪

4.1 松下政経塾の功績

松下政経塾の功績として最初に挙げられるのは地盤 (支持勢力)・看板(知名度)・カバン(選挙資金)を持たない有為の若者に対して政治家への道を開いたことだろう。開塾した頃は政党による議員の公募制度はなく、公募制が始まるのは1992 年の日本新党によるそれを待たねばならない。この日本新党には山田宏氏や長浜博行氏はじめ政経塾卒塾生が十五名ほど参加しており、その公募制自体松下政経塾関係者の影響と言っても過言ではない。
また、若い政治家が増えたことも功績と言えよう。 現在、卒塾生286名のうち、国会議員は33人、県知事2人、市区町長11名、地方議会議員24名であるが、塾自体が設立42年であるため、皆現在67歳以下である。野田内閣では、組閣時に最高齢が野田 佳彦首相54歳、玄葉光一郎 外相47歳、松原仁国家公安委員長55歳が閣僚を務め、前原誠司、原口一博などの後継者とみられた人物もいた。
政経塾出身者が国政に大量当選したのは、彼らが細川護熙を首班とする日本新党として出馬した時が初めてとなる。この時には設立14年目にして計15人が国政に進出したが、日本新党として当選した議員や日本新党を支えたスタッフに政経塾出身者が多かったことから、いきなり政権与党に参画することになった。日本新党の躍進とその後を見れば、自民党を結党以来初めて野党に転落させた、すなわち55年体制を崩壊させたことも「功績」と捉える人もいよう。
政策面においては、小さな政府、構造改革、地方分権をはじめとする議論を展開、リードしてきた側面がある。但し、その実行度合いに関しては賛否あるだろう。

4.2 松下政経塾の罪過

罪過として挙げられることは、設立10数年にして日本新党から多数の国会議員を輩出するばかりか政権与党にまでなったため、塾運営が松下幸之助の思想を涵養し、国家百年の大計を持ち国家を指導していく人物を育成するという本来の目的から外れ、過度に選挙を意識するようになっていることである。すなわち、政治家として何をやるかではなく、政治家になることが目的化してきているのである。選考において何らの権力をも持たず社会経験の少ない若者を選んでいるため、「しがらみがなく、斬新な発想と行動力がある」と評されることもあるが、いざ政界に進出すると根回しなどを行わないまま考えを実行しようとすることが目立つ。その結果、政経塾出身者には「軽い」「利己的」「口先だけ」「責任をとらない」「目立ちたがり」などの負のイメージが付きまとうことになる。
また、政経塾が権力を持たない者が成り上がるための装置に過ぎなくなったことは、政経塾出身者の間の連繋の希薄さにもつながっている。

5 さいごに

以上、松下政経塾の経緯とその功罪を概観した。本来なら松下幸之助の新党構想や、55年体制を崩壊させた日本新党と政経塾出身者の関係およびそれが塾の運営に与えた影響についても論じる予定であったが、時間的制約により今回は省略させていただく。

参考文献

松下政経塾HP(https://www.mskj.or.jp/ )
出井康博(2004) 『松下政経塾とは何か』新潮社
出井康博(2012) 『襤褸の旗―松下政経塾の研究』飛鳥新社
江口克彦(2010) 『松下幸之助はなぜ、松下政経塾をつくったのか』WAVE 出版
江口克彦、東海由紀子(2011) 『松下政経塾憂論』宝島社 



注 1 : 当時の一般家庭は一戸一灯契約を結んでいたため、電灯を使うと他の電化製品を使うことができなかった。二股ソケットは電気の供給口を二つに分けるもの。

注 2 : 「軍国主義者の権力と軍国主義の影響力は日本の政治・経済及び社会生活により一掃」するため、特定の人物を政府や民間の要職、大学教授等に就くことを禁じた指令・勅令。

注 3 : 消費税がすべての品目を対象に課税されるのに対し、物品税は嗜好品や奢侈品に対して課税された。但し、物品税は課税非課税の判断が難しい場合がある。

注 4 : 実際、松下幸之助は明治維新の志士を好んでおり、東山に霊山顕彰会を設立。維新の志士の遺品を集め、偉業を伝える霊山歴史館も設立した。

注 5 : スーパーマーケットを運営する。ダイエーが「価格破壊」を掲げて松下電器を含む家電製品を大幅値下げしたことに対し、松下幸之助は創業以来掲げてきた「適正利潤が社会の繁栄につながる」との思想をもって対立し、「松下・ダイエー戦争」と呼ばれた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?