「欲」を満たさない幸せ ~仏教が本当に教えたい幸せ〜

仏教で「本当の幸福」を教えているという内容をこのnoteでかいているのですが、「本当の幸福」と聞くと世間でよく聞く「いい人に出会う」「おいしいものを食べる」「いい景色を見る」といった幸せの延長線上を想像したり「仕事、生活や精神面でのバランスの取れた生活」みたいなものを想像する人が殆どのようです。

仏教ではこれらの幸せは必要なものではあるけれど、本当の幸福ではないと教えます。つまり、仏教が教える本当の幸福とは、先述のような幸せではないということです。

では、仏教で教える本当の幸福とは何でしょうか。それについて書いていきたいと思います。

欲楽と極楽

「極楽」という言葉は聞いたことがあるかと思います。仏の世界でもあり、「一切の苦しみの無い、幸福のみの世界」という意味です。「楽」は楽するとかいう意味ではなく幸せとか幸福という意味です。その幸せに極まりがない(際限ない、無限)ということで「極楽」と言われます。

この極楽は仏の世界ですから、極楽の幸せは「仏の幸せ」と言えます。それに対して人間の幸せは「欲楽」と言われたりします。この欲楽は仏教の言葉ではなく、人間の幸せを極楽と対比して漢字をあてたものです。

欲楽とは「欲と切り離せない幸せ」ということです。人間の幸せはどれだけ純粋なものであっても、欲とは切り離せません。

「おいしいものを食べたい」」「お金が欲しい」「モテたい」「よく見られたい」「楽したい」、これらはある種の幸せであり、これが欲によるものだというのはわかると思います。もちろん、これらは決して悪いと言っているのではありません。

あくまで欲と切り離せないと言ってるだけです。食べる幸せは食欲と切り離せませんし、お金による幸せは多々あれど財欲や物欲と言われるものと切り離せないものです。

また、家族や友人など、人との出会いや関係性、かかわり方による幸せも欲と切り離せないものです。繰り返しますが、欲と切り離せないというだけで、人に必要なものであり、いいものです。決して一概に悪いと言っているのではありません。

では人間関係による幸せにどんな欲がかかわるかと言いますと「執着」です。これは仏教では愛欲といわれるものです。好きな人への執着です。

家族がいることによる幸せは家族が好きで執着していなかったらありえない幸せです。この執着事態は悪いものではありません。家族に執着しなければ、簡単に育児放棄や家庭崩壊を招きます。あくまで愛欲や執着という「欲」が関わっているということを言っています。

また、仕事上の人間関係なら名誉欲も関わります。よく見られたい、悪く見られたくないという心です。

このように、世間の幸せは何かしら「欲」が関わります。これら欲が関わる幸せは本当の幸福ではありません。なぜ、本当の幸福と言えないのでしょうか。

欲楽の実態

欲による幸せがなぜ本当の幸せと言えないか、それは以下の理由です。

・変わり通しで続かない
・求められなくなるときが来る
・死を前に崩れる

まず変わり通しという事ですが、人の「欲しい欲しい」という心は常に変わり通しです。世間の流行を見るとわかりやすいと思います。流行は大衆が「欲しい欲しい」と求める心から起こりますが、その流行も一年続くものは稀です。去年流行ったものも、今年はもう古くなってます。そんな一年足らずで変わってしまうものをどれだけ求めても、幸せに離れません。

また、「欲しい欲しい」と求める心がどれだけあっても、求められなくなる事があります。酒がどれだけ好きでも、肝臓悪くしたらもう酒は楽しめません。登山やマラソン、ツーリングなとのアウトドア的趣味がどれだけ好きでも寝たきりになると求められません。

そういう病気や障害がなくとも、歳とともに求められなくなります。最近は若々しい高齢者も多いですが、20代と70代では求める事ができるものは全く違います。90代まで行けば求められないものはかなり多くなるでしょう。

ですが、求める事ができないからと言って「欲しい欲しい」という欲の心は全くなくなりません。年と共に欲がなくなったと思うのは、年と共に欲の現れ方が変わっただけです。なくなってはいません。求める心があるのに求める事ができなくなるのではそれは幸せではなく苦痛でしかありません。

それでも、生涯若々しく高齢者になっても何かを一生懸命求める人もいます。それは素晴らしい事ですが、必ず死がやってきます。いえ、高齢者でなくても、今若い人でも必ず死がやってきます。

その死の前に「欲しい欲しい」と求めたものがどれだけ役立つでしょうか。

お金は医療費になるだけで、死を逃れる術にはなりません。楽しかった思い出では、死の苦痛も死後の恐怖も無くせません。

いざ死ぬときには、「死んでこれからどこへ行くのか、どうなるのか」という真っ暗な未来と、過去に求め続けていたものが全て役に立たない事実を突きつけられ、恐怖と後悔が代わる代わる襲い掛かります。

「そんな事ないよ」と思う人は、死を遠くに見てる人です。「〇〇さんはそんな恐怖も後悔もなく死んだよ」と言う人は、なぜ他人のあなたが〇〇さんの心中わかるのでしょうか。

死は遠い先でもなければ他人の問題でもない、今、まさに自分自身に突きつけられる問題です。それを他人の体験や自分の感想、体験でどうこうすることはできません。

死んでどこへいくかわからない真っ暗な未来を全人類が抱えています。その未来の前には欲で求める幸せは何の役にも立たないんです。

これが欲楽の実態です。

仏教が教えたい幸福とは

誤解がないように書きますと、仏教は「欲楽」を否定する教えではありません。といっても浄土真宗をはじめとする「浄土仏教」といわれる教えに限ります。

仏教には大きく二つの教えがあります。

一つは修行して欲楽への執着を断ち切り、幸せになろうとする聖道仏教です。天台宗とか禅宗とかはこの一派です。

それに対して、欲楽への執着あるままで幸せになれる浄土仏教があります。これは浄土真宗や浄土宗がそれにあたります。

浄土真宗では、仏教で本当に教えたい幸福の事を「摂取不捨の利益」と教えます。漢字がわかりにくいですが、簡単に言いますと「絶対に崩れない幸福」と言えます。利益は「りえき」ではなく「幸福」「幸せ」という意味です。


世情や流行、老いや病、欲や怒り、それら一切に遮られることもなければ崩されることもない幸福ということです。この幸福は欲楽とは全く違うものです。

よく浄土真宗の教えを「死んだら極楽死んだら仏」と言ってる人がいますが大変な誤解です。この世で摂取不捨の利益(幸福)になった人が死んだら極楽に行って仏に生まれる、という教えです。

この摂取不捨の利益になった人は、死んだらどうなるかという暗い未来が金輪際なくなり、生きているときに死んだら極楽に行けるとハッキリします。

この「死んだら極楽にいける」という心は老いや病にも、欲にも怒りにも一切かき消されない、微動だにもしない幸福です。「教えがそうだから極楽行けるだろう」とかそんなものではないんです。

その幸福に全ての人が生きているときなれると教えたのが浄土真宗であり、本当の仏教です。

仏教は教えを聞く事が大事

こう書きますと、「そんな事があるのか?」という疑問や、「どうしたらなれるのか?」という問題が発生します。それに対して浄土真宗では「聴聞に極まる」と教えます。要するに「教えを聞く事が大事」という事です。

多分、はぐらかしていると思われてるでしょうが、これが至極真っ当な答えです。だって、誰一人として欲楽以外知らないんですから。

知らないものを信じる事なんて出来ませんから、浄土真宗は聖書みたいに「信じなさい」とか「どこまで信じれるか」「信じる事が大事」なんて言いません。仏教の教えは、全ての人が本当に教えたい「摂取不捨の利益」を知らないことを重々承知だからです。

わからない、知らないことを承知しているからこそ、信じなさいとか祈りなさいではなく「聞く事が大事」と教えます。知らないことはちゃんと聞いて教わらなければなりません。

高卒の新入社員ですら、わからないことは聞いて教わります。会社の仕事を知らないからです。

摂取不捨の利益がわからないんですから聞いて教わらないといけません。はぐらかしているわけではありません。それしかないからです。聞く以外に何があるのでしょうか。

かなり長くなってしまいましたが、仏教が教えたい幸福とはこういうものです。ほんの僅かでも何か感じてもらえたなら、どうか仏教の教えに関心を持つきっかけになって欲しいとは願います。

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