「葬儀」より「生きる意味を教える法話」 ~法話より葬儀を重んじる世間~

最近仏教の勉強してるっていうと「教えてほしい」と言ってくる人だ時たまいます。いや、それはありがたいことなんですが、その内容が「葬儀での礼式を教えてほしい」「宗派ごとに葬儀でやるべきことを教えてほしい」といった感じです。

すこし悲しくなります。葬儀の場で失礼のないようにするのは大切なのですが、それが第一だと大きな見落としをしています。

最近ではアメリカ人のほうが仏教を熱心に学んでます。「仏教学ぶならアメリカへ」という時代も近いかもしれません。

こういう寂しいことがあったので、今一度葬儀を重んじるべきでない理由、「生きる意味を教える法話」が大切な理由について書きたいと思います。

葬儀で恥かかないことにどれだけ意味がある?

この節は私の感想です。狂人の戯言とおもって聞いてください。

葬儀で恥をかきたくないと思う人はたくさんいるようですが、葬儀の場にいって目にするものって何でしょう?遺族の目ですか?その前に棺に入った故人だと思います。

この故人は今、どこへ行ったのでしょうか。いいところへ行ったのか、悪いところへ行ったのか、それ以前に生前に故人は自分が死んだらどうなるか知ってたでしょうか。

死後を知る人を聞きません。故人も死後を知らなかったとしたら、故人は全くわからない死後に突っ込んでいったことになります。これはあまりの恐怖です。

死んだら死んだときさ、死後なんてないさ、別れた大事な人と再会できるよ、などと、いろいろ言ってたかもしれませんが、それは今、本当にその通りになってるでしょうか。

そんなあいまいで真っ暗な未来に突っ込んでいった人が故人です。その故人がこの世に残した遺体が目の前にあるんのに、どうして礼節とか恥かかないようにとか、そんなことを第一できるのでしょうか。

当然、公衆の場ですから礼節を気にする必要はあります。ですが、第一はそこではないはず。なのに、どうしてそこに目がいかず世間的礼節を第一にするのでしょう。バカな話です。

戯言が過ぎました。すみません。ですが、葬儀やその礼節を重んじて、故人の行く先に目を向けないのはおかしなことです。故人の行く先は間違いなく自分の行く先なのですから。

葬儀の場は人が本当にまじめになる場

人は常に仕事や生活、人間関係や趣味快楽、こういうものに一生懸命で、今生きている自分自身にも、そんな自分がどこへ向かうかも考えません。

「わたしは常に10年後を見据えてる」と反論されそうですが、「どこへ向かうか」とは100年後とか1000年後とかちょっと先の未来を言ってるんじゃないんです。

私たちは必ず死にます。ですが、死んだ先はどうなっているんでしょうか。「死んだら無」と言い張る人もいますが、死んだら無なら「100人殺しても最後自決すればチャラ」という暴論が成り立ちますが、いいのでしょうか。

こういう論拠も理屈も通らない考えを信じて私たちは日がな暮らしています。ですが、そんな私たちも葬儀の場ではまじめに自分のことや自分の人生の事を考えます。

そういう場は、「本当の仏教」を聞くのによい場所でもあり、「亡き故人を助ける縁を作る場所」ともいえるのです。

仏教は本当の幸福を教えた

仏教は葬式のやり方とか墓守とか先祖供養を教えたのではありません。人に「本当の幸福」を教えたのです。その本当の幸福とは「死」をもっても壊れない幸せの事です。この幸せは生きているときになれます。そして全人類だれしもがこの幸福になれるのです。だから釈迦も高僧たちも仏教を世に広めようとしたんです。

生きているときに本当の幸福になれた人は、死後、極楽浄土へ行き仏になることができます。この仏に生まれるとはどういうことでしょうか。

仏とは「悲智円満の人」とも言われます。悲とは慈悲心のことで「人の苦しみを抜いて、幸せにしてやりたい」という心です。智は智慧のことで人を本当の幸福に導く力ということです。

こういう存在が仏ですから、極楽へ行けてもそこでのんびりしていません。すぐに苦しみの絶えない人間などの世界へとんぼ返りして、そこで苦しむ人たちをなんとか本当の幸福へ導こうと尽力します。それが楽しくて仕方がない、それが仏という存在です。

仏はすべての人を幸せにしたいと願う人ですが、縁のない人は流石に導けません。ですが、縁ある人なら導けます。自分が仏になる前に親兄弟、恩人、友人知人恋人だった人たちは、当然ですが、縁ある人です。

ですから、本当の幸福になって死後仏になった人はすぐに生前死に別れた縁ある人たちを助けに行くのです。

こうなれる道を教えるのが仏教であり、その話をするのが法話です。

本当の仏教はこのことを教えています。葬儀はあくまでよい縁手掛かりというだけです。

葬儀は名誉より故人を思おう

葬儀で失礼のないように、というのは一つ大切なことですが、それが名誉のためなら考えを改めるべきです。目の前で死んでいるのはあなたではなく故人です。葬儀はあなたの名誉のためではなく故人のために行われるものです。

では何が故人のためでしょうか。いろいろ言われるでしょうが、亡き故人を縁に参列者が法話を聞き、この世本当の幸福になる縁手掛かりに、死後仏になれる身になるための勝縁にすることが本筋です。そうすれば、亡き故人を死後に助けに行けるんですから、世間的な礼節よりよほど大事だということは明らかだと思います。

世間では葬儀の意味も仏教も誤解しかしていません。一応は仏教国と言われる日本にいるのですから、今一度仏教の教えを学んでいただきたく思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?