悪い人が悪い顔してるのは漫画の世界だけ 〜仏教が教える悪人〜

最近漫画アプリで昔の漫画読むのが好きなのですが、漫画って時代ごとの傾向があって面白いものです。

昭和から平成初期の作品って悪役が露骨に悪い顔してることが多いんです(もちろん全ての作品がそうではありません)。登場した瞬間に「このひとは悪役だ」とわかってしまうことがよくあります。そんな演出したらチープになってつまらなくなりそうですが、そんな演出だからこそ魅力を出しているから面白いものです。

もちろんこれは漫画という創作の中の話なので、現実は違います。

現実世界でも悪人が目の周りに影が入って、焦点が定かじゃない目をした露骨に悪そうな顔してたら苦労はないんですが、そんなことはありません。

では、現実の「悪人」とはどんな顔をしてるのでしょうか。

今回は仏教の観点から「悪人」というものを見ていきたいと思います。


世間と仏教での「善悪」の違い

悪人善人とはその人が「善か悪か」という議論のもとに成り立ちます。この「善悪」は仏教と人間社会ではまったく異なります。まずは、その違いを説明します。

この言い方は語弊もありますが、率直に書きますと人間社会の善悪は「人間の都合」が前提になっています。

例えば生き物を殺すこと、「殺生」です。人間社会で殺生は「悪」だと教えます。もし人を殺せば殺人罪に問われます。故意でなくても過失致死。その他、人の死につながるような行為は全般に故意、過失によらず何かしらの罪に問われることが多いです。

家畜や魚の類なら「人が生きるために仕方ない」と容認されます。家畜魚への殺生が咎められるのは無益に殺した時のみで、食用で殺す事を悪だという人は少ないようです。

これが害虫になると、殺すことが悪だという人は少なくなります。

ですが、人間も、家畜や魚も、虫達も、すべて命には違いないのに、このような差別があります。これは人間の都合が働いているからです。

誤解がないように追記しますが、この人間の都合に良し悪しをつけるつもりはありません。人間社会は人間が生きる場ですから、人間の都合無しに成り立ちません。それが良いか悪いかではなく、人間社会の善悪は人間の都合が絡んでいる事をわかってもらえたらと思います。

仏教の善悪

仏教の善悪には人間の都合は絡んでいません。なので人間にとって都合が悪いことでも「それは悪だ」と論ずることがあります。

こう聞くとあまりよくない教えのように聞こえるかもしれませんが、ちゃんと理由があるのでわかってもらいたく思います。

まず、仏教の善悪とは「いつでもどこでも変わらない真理」を根幹として論じられています。その真理とは「全ての人が幸福になる真理」です。

人間の営みが幸せを求めての事であるように、全ての生き物は「幸せ」を求めて生きています。この全ての命が求める「幸せ」になれる真理に基づいて、善悪を論ずるのが仏教です。つまり、仏教でいう善は「幸せになる行為」の事です。逆に悪は「不幸になる行為」の事です。

この真理のことを仏教では「因果の道理」と言います。道理は真理と同じ意味で「いつでもどこでも変わらない事」です。因果とは「原因と結果」の事です。

仏教では、すべの結果には原因がある、原因なく起こる結果は絶対に無い、と教えます。この結果には人の「幸、不幸」も含まれます。

つまり、私たちの幸福や不幸には原因があるという事です。その原因とは「自分の行い」です。

「善い行いは善い結果、悪い行いは悪い結果、自分の行いは全て自分の結果を生み出す」というのが仏教の鉄則です。この鉄則に基づいて論じられているのが仏教の善悪です。

こう聞くと「当たり前じゃないか」という人が多くいます。ですが、本当に当たり前と言えるでしょうか?

善悪は人の都合じゃない

人間社会は人間が生きていく場所ですから、人間の都合が絡むのは当然ですし、絡まなかったらそれは人間社会ではありません。ですが、この世は人間の都合で成り立ってはいませんし、一部の宗教が言うようなこの世が人間のために作られたなんてことは有ることが無いです。

ですから、本来の善悪は人間の都合は関係の無いものとなります。現に、人間が生きていくためには生き物を殺して食さなければいけません。これは仕方がない事ですが、家畜も魚も殺されたいとか食べられたいなんて思っていません。

よく「命に感謝して食べましょう」と言われます。これは立派なことですが、感謝すればいいわけでもありません。あなたが通り魔に「あなたに感謝して殺します。」と言われてあなたに対して両手を合わせて深々と礼をしてから刺してきたとして、あなたがそれを容認できるわけないでしょう。

命をもらう以上、感謝する心は大切ですが、それは免罪符ではないんです。感謝しても悪は悪です。すべての命が殺されたくないと思っている以上、生き物を殺すことは、

それが食べるためでも、

感謝していても、

仕方のない事であっても、

例外なく悪となります。

そしてその悪は、神とか閻魔とかが裁くのではありません。その悪に応じた報い、運命、結果を自分自身が生み出すんです。

ですが、そうすると「私たち人間は悪を犯さずに生きられない存在」となります。ハッキリ答えますと、仏教では「すべての人間が悪を犯さずに生きられない悪人だ」と教えます。つまり、仏教でいう「悪人」とは全人類すべてのことなのです。

悪人は悪人ではなさそうな顔をしている

仏教では悪人とは人間の代名詞です。ですから悪人は普通の顔しています。心理学の世界では「サイコパスは普段は善良そうな顔をして人に接する」と言われますが、そういうものではありません。すべての人が、普段から殺生もするし、ひとを妬み呪うこともする。心のあり様を見れば、善人と言える人がいるでしょうか。

こういう言い方をすれば、世間の秩序が保てなくなると反論する人がいます。ですが、それは自分が悪人だとわかってないからです。

本当に自分が悪人だとわかれば、自分の悪い行いに気付き、なんとかしようとせずにおれません。例えば、自分が癌だとわかった人は癌を何とかしようと食生活や療養に必死になります。人と争う暇なんてありません。食生活にも普段の生活にも一切気遣わないのは癌だとわかってないからです。

ですが、悪い行いをしているのに、「いや私は悪いことなどしていない」とうぬぼれている人が殆どです。仏教ではこういう「悪をしているのに善人と自惚れている人」を仮に「善人」と呼びます。ややこしいのでここではこのような人を古典から引用し「疑心の善人」と書きます。

この疑心の善人だらけになれば、秩序は保てなくなります。疑心の善人は自惚れてますから自分の悪は棚に上げ、人の悪ばかりを叩きますから、争いが絶えません。

逆に悪人ばかりになったらどうでしょう?悪人だから「自分は悪をする人だ」と知らされた人です。こういう人は自分の悪に対しては何とかしようと必死になります。人の悪に対しては「あの人も自分と同じ悪をして苦しんでいるんだ」と同情する心が湧きます。病で例えますと、闘病生活中に同じ病気で入院している人がいると同情し、ともに治療頑張ろうという心が湧くようなものです。

悪と聞くと、人は犯罪とか秩序を乱す事と思いがちです。それは間違いではないのですが、例えるなら難病が適切です。難病は放っておけばどんどん悪化して苦しむように、「悪」は放っておけばどんどん自分自身が苦しむものなのです。

この自分の悪という難病がすべての人が知らされたなら争いなんて起きません。争う前に一致団結してなんとかしようと必死になるからです。

そして、仏教はこんな悪人を助けるための教えなのです。

悪人を助けんがための仏教

仏教は、こんな悪人である全人類のために「善」を勧めています。これは、自分の悪い行いを善で帳消しにしようなんてチンケなものではありません。

仏教は一貫して善を教えます。仏教の教えは「廃悪修善の教え」と言われます。「悪いことをやめて善いことをしなさい」という意味です。悪い事をする人間に対してなぜこう教えるかと言いますと、「善い結果を受けるため」でもありますが、最大の理由は「自分の本当の姿を知らせる」ためです。

悪人ながら善をするのは立派なことです。ですが、自分の悪を知らないままでは「自分はこれだけよいことができる」と自惚れてしまいます。自惚れも一種の悪ですから、余計悪い報いも受けてしまいます。

仏教で善いことを勧めるのは、幸福になるためですが、「悪をしてしまう本当の自分の姿を知らせて、本当の幸福に導くため」です。

例えとして適切かわかりませんが、更生施設というのは罪人を苦しめるための場所ではありません。罪人に自分の犯した悪を知らせて、本気で更生して、世間で幸せになれるようになってもらうための場所のはずです。

それと同じく、仏教も単に善を教えたのではなく、本当の自己を知らせ、本当の幸福に導くために善をすすめているのです。本当の自分がわからずに本当の幸福にはなれません。

自分の罪の恐ろしさを知らない犯罪者に更生はあり得ないように、
自分が何をしたいかを知らずに将来設計ができないように

本当の自分を知らずに本当の幸福にはなれません。その本当の自分を知れば「悪をしてしまう自分」も知らされます。

そのためには善を勧めるしかありません。本気で善に取り組んだ人でなければ、悪をしてしまう自分は知らされません。

浄土真宗の親鸞聖人も「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」という言葉を残しています。平たい言葉で意訳しますと「本当の幸福に導くための善とならない善なんて一つもないのだよ」という意味です。まぎれもなく善を勧めた言葉です。

また同じく親鸞聖人は「薬があるからと言って毒を飲めなんて教える者はいない」とも教えています。これは薬を仏教、毒を悪に例えて「悪人を助けるのが仏教だからといって、悪をやれなんて教える人はいない」という意味です。

仏教はまぎれもなく悪をしてしまう人間を助ける教えですが、だからといって悪をすればいいとか善をしなくてもいいなんて馬鹿げています。ステージ4の癌を治せるようになっても、食生活を乱していいなんて理屈は通りません。

仏教はまぎれもなく善を教えたもので、それは悪を戒めるためです。その真意は「悪をしてしまう自己を知らせ、そんな自分を助けるための仏教だ」と知らせて、本当の幸福にするためです。仏教はその教えの内容を真剣に聞くことが大切なんです。

長くなってしまいましたが、仏教の教える悪人はこういうものであり、その悪人を助けるための仏教です。その教えの一貫した内容は善の勧めです。仏教でいう悪人の意味と、仏教が善の勧めであるということがわかってもらえたら幸いです。

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