死を超えて ~親鸞聖人の遺言~

普段仏教の記事を書いてますが、タイトルの「死を超えて」というのは仏教の言葉ではなく、普段私がやっているゲームに出てくる進捗の名前です。わかる人は多分わかるかと思いますが、大事なのはそこではなく「死を超える」という所です。

「死を超える」と聞くとどんなことをイメージするでしょうか。もちろんですが、スピリチュアルみたいな内容ではありません。世間的に見ますとおおよそ以下があるように思えます。

・九死に一生を得た時
・臨死体験をしたとき
・死んで生き返ったとき

多分このような体験は「死を超える」という言葉にイメージ的に会うのではないでしょうか。

仏教では「死を超えたこと」はちゃんと説かれていますが、上記のようなものではありません。むしろ上記の事はすべて「生きてる時の事」であり「死を超えた事」では断じてありません。

仏教で教える「死を超える」とはどういうことなのでしょうか。今回はそれを解説します。


世間的な死を超えるの実態

とくにアンケートとかとったわけではないので上記の「世間的な死を超えるのイメージ」は私の感想なのですが、こういう印象を持つ人はいるように思えます。まずはこの世間的な死を超えるがなぜ「死を超えた事ではない」のかを説明します。

いつものことながら時数がエライことになるので簡潔に書きます。

・九死に一生を得た時
→それはまだ死んでいない
・臨死体験
→死に瀕するほど死にかけてはいるが、まだ生きている
・死んで生き返る
→実例として死亡診断を受けた人が生き返った例はある。しかし、それは「死亡したと見まがう状況だった」だけであり、本当に死んだわけではない。現にそのような状態に陥った人でも聴力はのこっているケースが多い。

おおよそこんな感じです。要するに世間的な死を超えた体験というのは「生きてる人間からみれば死んだも同然」の体験をしたというだけで、事実として死んではいません。だから死を超えてはいないのです。

世間の「死を超えた体験」が死を超えていない理由としてはこんな感じです。では次に仏教でいう死を超えたものを解説します。

死を超えた幸福

仏教では死を超えた幸福というものが教えられています。死を超えた幸福というのは「死んでも壊れない幸福」ということです。これについては全くイメージがつかないと思います。私も初めて聞いたときはピンときませんでした。

ですが、死を超えるということは、実はスピ系みたいな話でもなんでもなく、私たちが生きる上で非常に大切なことなんです。

なぜ大切かと言いますと、私たちは幸福を求めながら、死をもって壊れる幸福しか知らないからです。

幸福と言ってもその言葉の意味は存外広いものです。その中で私たちが知っていて、求めているものは快楽とか享楽というものです。いわゆる「楽しみ」というものです。

人は楽しさを感じているときに幸福を感じます。ですが、それらすべて死をもって崩れ去り、無意味となります。それまで楽しかった思い出は余命宣告されたときには何の役にも立ちません。余命いくばくもなくなった身体で、健康だった時の楽しみは何一つ味わえません。

これに対しおおよその人が思うのが「いつか死ぬから今楽しまなければ」という感情です。これは大きな間違いです。なぜなら、私たちの幸福は「未来」に大きく影響されます。その未来は確実であればあるほど大きく影響します。

飛行機の例え

例えば今あなたが飛行機に乗っているとします。飛行機の中はずいぶん至れり尽くせりで、機内食は美味しい上に頼めばいくらでも食べられる。映画も見放題、ネットも使える快適な環境です。ですが、機内アナウンスでとんでもないことを知ってしまいます。

「この飛行機は通過地点はある程度決まっていますが目的地がありません。どこに向かっているかわかりませんし、着陸地点もわかりません。また燃料はありますがいつまでもつかわかりません。ですが、そんなことよりも食事や映画などの多くの娯楽を用意しましたので、十分に空の旅をお楽しみください。」

こんなこと言われてあなたは空の旅を楽しめるでしょうか。通過地点があても目的地がわかっていない、しかも着陸できるかもわからない。この状態で食事や映画を楽しめなんていっても土台無理な話です。娯楽にあふれたフライトそのものが地獄と化します。

この例えは人間の生を例えたものです。通過地点は「入学、就職、結婚、定年、老後、、、」といった人生の通過点を例えています。人生のターニングポイントは人それぞれとは言え、おおよそは決まっているところがあります。日本に住んでいるなら大体ここら辺を通るだろうというのは予想できます。

目的地とか着陸地点と例えたのは「生きる目的」です。人は誰もこれに明確に答えられません。わかる人もいません。

ですが、「私は生きる目的明確です」と言ってくる人が多くいます。これらの人々はみんな「楽しく生きること」とか「家族」とか「生活と仕事のバランス」とか「人間関係」を目的としてあげてきます。これらは生きる目的ではありません。例えの中で言えばこれらはみんな娯楽です。

娯楽として例えたのが「生きる楽しみ」とか「生きる手段」と言えるものです。具体的には「仕事、家族、人間関係、趣味、生きがい、、、」といったものたちです。これらは人生を楽しくしてくれますし、生きる上で大切なものです。ですが簡単に崩れます。飛行機の中での映画や機内食がよくても、隣の席の人がいわゆる「クチャラー」だったら台無しです。隣の人が訳のわからないことをこちらに言い続けていたら娯楽の楽しさは崩れます。世間の楽しみも、些細なことで崩れてしまうことを例えたものです。

また、私たちの幸せとか楽しみというものは「死」を持って崩れます。その死に例えたのが「墜落」であり、それに向かう寿命を例えたのが「燃料」です。飛行機の中での楽しみが墜落のリスクで全て消し飛ぶように、私たちの幸福は死を持って崩れます。

このことを例えているのがこの飛行機の例えです。私たちの人生は詰まるところ「死」に向かっている旅と言えます。つまり「死後の世界」に向かっているということができます。その「死後の世界」があるのかないのかわからない、あってもどんなところかもわからない、これでは現在から暗くなってしまいます。ちょうど先述の飛行機のようなものです。

こんな実態を知らず、世間は「生きていればいいことあるよ」とか言って人を激励したり「命を大切にしなさい」と生きる目的もわからず話します。おかしな話です。この人たちは詰まるところ、飛行機のいく先も知らず、機内の娯楽にしか目を向けていないのにこんなことを言っているのですから。

この「死の大問題」を超えた幸福でないと私たちは本当の意味で幸福にはなれないのです。それを教えたのが親鸞聖人で有名な浄土真宗です。その浄土真宗で教えているのが「信楽」という死を超えた幸福です。

聖人の遺言

浄土真宗の親鸞聖人は遺言としてこんな言葉を残しています。

「我が歳極まりて、安養の浄土に還帰すというとも、和歌の浦和の片男波の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ、一人いて喜ばは二人と思うべし、二人いて喜ばは、三人と思うべし、その一人は親鸞なり」

大まかに意訳しますとこうです。

「私はもうこの世の命の終わりがきた。死んで阿弥陀仏の極楽浄土へいくが、海岸の波が何度も行っては戻ってくるように、すぐにこの世に戻ってきて、皆を本当の幸福へ導くからな。本当の幸福になって喜ぶ時も、なれずに泣いている時も、親鸞はあなたのそばにいるからな」

臨終に臨むとき、人は種々に後悔が襲ってくるとよく言われます。ですが、親鸞聖人は後悔どころか「これから死んで極楽浄土へ行くぞ」と言っています。

つまり、親鸞聖人は死を前にしても「浄土へ行ける」という心は一切揺らいでいなんです。この「死んでも崩れない、死後浄土へ行ける心」というのは実は私たちにとってとても大切な「幸福」です。仏教用語では「信楽(しんぎょう)」と言われます。

「信楽」という幸福は「死後、極楽浄土へ行って仏に生まれる」とハッキリする幸福です。この幸福は世間のどんな苦悩にもこわされることのない幸福です。もちろん死を持っても壊れることのない幸福なので、親鸞聖人は死を前にして「これから浄土へいく」と断言しています。

さらに後半部分では「浄土から戻ってくる」と断言しています。

これは仏はみんな極楽浄土に生まれますが、浄土でのんびりしている仏は一人もいないからです。仏とは自分だけが本当の幸福になれればいいなんて思う人ではありません。全ての人が本当の幸福にやるまで導かずにいられないのが仏です。

だから極楽浄土へいって仏に生まれても、すぐにこの世、娑婆に戻ってきて、全ての人に本当の幸福になれることを教えずにいられないのです。

親鸞聖人の「必ず戻ってくるぞ」という言葉も、この事から来ています。この世、生きてる時にいつ死んでも浄土へいける身になった親鸞聖人は、この世からその事を伝えずにはいられず、多くの布教活動と多くの著書を残しました。その活動は死んで浄土にいってからも続くと言われている言葉です。

人間の観点からすると「せっかく極楽にいったのにもどってくるのか」と苦痛のように思えますが、これは人間と仏の違うところです。仏とは、この全ての人に本当の幸福がある事を伝えることや導くことが楽しみであり、幸福でもあります。

人間で言えば「遊んでいる時のように楽しいから」仏がこの世に戻って導く姿を「煩悩の林で遊ぶ」とも表現されます。煩悩の林とは人間の世界の事です。人間誰しも欲もあれば怒ることも妬むこともあります。そんな欲、怒、妬みは仏教で煩悩と言われ、人間が集まる様を煩悩の林と例えられた表現です。

その煩悩の林の中で周囲の欲や怒り、妬みも障り(障害)とならず、人に本当の幸福を教える活動を続ける。それが楽しいと言うことです。親鸞聖人もこの境地だったのです。その境地を「こころは浄土にあそぶなり」と書き残しています。

親鸞聖人は29歳でこの信楽の心に救われました。そしてその境地はどんな苦悩にも、死にも壊される事のない幸福でした。この信楽こそが仏教が教える本当の幸福であり、人が本当に求める死を超えた幸福なのです。

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