都合のいい天国を否定する仏教

仏教では死後のことが教えられているのですが、世間でそのことが語れることは極めて少ないです。相続だの仕事の引き継ぎのことを考える人がいますが、そういうことではなく、「自分が死んでどこへ行くのか?」ということです。

ごくたまに自分が死んでどうなりたいかを語る人もいるのですが、その内容はおおよそこのようなものです。

「自分は死んだら天国に行って、これまで会ってきた人たちと再開してあなたと出会えてよかったと喜び合いたい」というものです。

死後の世界がこのようなものだったら確かに結構ですが、果たして現実はどうでしょうか。理想通りなのならいいですが、そうとも限らないのに理想だけ掲げるのは脳内花畑です。ましてや、死後は確実に来ます。例えどれだけ医療が発達しようと、不老不死が研究されようと、人が死ななくなることなどないのですから。

死後は万人共通の確実な未来だからこそ、しっかり考えたいものです。今回はその死後を仏教の目線で見ていきたいと思います。


確実な死後を決めるのは確実な現在

仏教ではこう教えられています。

自分の過去の行いを知りたければ、現在の結果を見なさい。
自分の未来の結果を知りたければ、現在の行いを見なさい。

仏教では自分の結果、世間的に言えば運命と言われるものは自分の行い、行為が生み出すと教えます。畑に種を撒けば必ず生えてくる、自分の巻いた種は自分が最後刈り取らなければならない。そのように自分の行いが、自分の未来の結果を生み出すのです。

今回のテーマの「死後」も「未来」です。死後にいく世界も自分の行いによって生み出されるのです。

これを仏教では「自業自得」と言います。世間では悪いことしたときに使われますが、実際には良いことも悪いことも、自分の身に降りかかること全てが自分の行いによるものなのです。

なので、私たちの死後を知りたければ、現在の行いを見ればいいのです。こういうと「私はこれだけ人に貢献しているから」とか「まあそこまで悪いことしないから」と表面上だけ見て安易に考える人が多いです。ですが、現実は必ずしも自分の思っている通りではありません。

仏教は自分の現実、真実の自己も照らし出しているのです。

都合と欲目

先ほど例に挙げた「自分の行いを安易に考える人」の特徴の一つに「都合や欲目で自分を見ている」というのがあります。

「都合」は周囲の印象や声で自分を見ている人です。これらは大切なものではありますが、必ず相手の都合がついて回るのです。

どれだけの人格者であっても自分にとって都合の悪い人に良い印象は持てないでしょう。例を挙げますと、日本史上最大の成功者と評される豊臣秀吉は、確かに人格者です。ですが、豊臣家を滅した徳川家の文献で秀吉を正当に評価した文献はありうるでしょうか。

逆に秀吉はとても良いとは言えない行為もしています。その事実を世間の秀吉の成功を称える書物に見られるでしょうか。都合が悪いから触れないか脚色されるでしょう。

人の印象、声、評価はその人の都合で決まってしまいますから、本当の意味で自分を知ることなんてできません。

「欲目」は自己反省で自分を見る人です。自分で自分を見つめることは大切なことですし、人の都合は入り込めないでしょう。ですが、自己反省には「欲目」が入り込むんです。欲目とは「自分を良いように見よう、良いように見よう」とする心のことです。

人間、自分のことを卑下することはできても、悪く見るということは中々できないものです。交通事故で双方に責任があっても、どうしても自分の責任より相手の責任を責めがちです。相手と口喧嘩した時もそうです。愚痴として出るのは十割相手のことですが、よくよく口喧嘩の実態を聞くと「どっちも悪い」というのがほとんどでしょう。

この「都合」や「欲目」はその人が優れているか否かという問題ではなく、全ての人間がこれらに左右されて自分を見てしまうのです。これでは正しく自分を見れているとは言えません。

正しく自分を見れていないのに「私は人に貢献しているから、将来はこうで死後は天国いって云々・・・」などと言っているのはとても危険なことです。自分が見えていないということは前が見えていないのと同じですから目隠しして車のアクセル全開にしているようなものです。時間が止まらないのだからブレーキもないようなものです。それで崖に向かっているようなものです。

これでは大変な一大事です。仏教はこの人間の実態に警鐘を鳴らす教えです。

仏教は本当の自分を映す

仏教にはいろいろな別名があるのですが、その中に「法鏡」という異名があります。法は「真実」という意味です。つまり真実の自分を映してくれる鏡という意味です。

法鏡=真実の自分を映す鏡

自分自身というものは近すぎて見ることができません。どれだけ視力が高くても自分の顔は見えません。そんな自分の顔を見るには鏡を使います。

そういう意味では先の周囲の印象とか自己反省も自分を映す鏡と言えるんですが、都合や欲目によって歪んでいるので本当の自分を映してはくれません。

それらと違い、本当の自分自身をそのまま映し出してくれるのが仏教の教えなのです。ですから、仏教の教えは他人事ではなく自分自身のことなんです。

仏教が説く死後の世界はスピリチュアルとか夢物語のような曖昧模糊なものでもなければ、世間で言われる天国のような自分都合なものではありません。

今現在の真実の自分自身を通して確実な未来を知らせてくれる教えなんです。

自分都合な天国を信じて生きれば、そのままが一大事です。確実な未来を確実な現在から見通す必要があります。だから仏教は「自業自得」と教えるんです。決して人を責めているのではありません。

この自分の行いが自分の結果を生み出すという教えを「因果の道理」といいます。道理とは「古今東西変わらないもの」という意味で、宇宙のどこでも、何億年前も後も絶対変わらない真理のことです。仏教は全てこの因果の道理が根幹となっています。

その道理から言えば都合のいい天国は否定されるのは当然のことですし、世間でも老後を曖昧に考える人は賢いとは言われません。

その老後より確実なのは死後なのですから、不吉とかなんとか忌み嫌ってはいけません。「死後を考えたから死期が早まる」なんて因果関係からおかしいでしょう。お金のこと考えてお金は手に入らないでしょう。

忙しく目まぐるしい世の中ですが、一度フラットな目で自分を見つめてみてはどうでしょうか。それが仏教学ぶきっかけになってくれたら、嬉しいことこの上ありません。

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