生きづらさを解決する仏教

いつの時代も仏教と聞くと葬式だったり法事だったりと、なにか普段の生活とは関係のないもののように思われているようです。ひどい場合スピ系と混同されることもあるみたいです。

仏教というのは本来、私たちが生きていくうえでとても大切なものであり、無関係ではありません。本来無関係なものなら時代を超えて仏教の教えが語り継がれたりしませんし、合理主義な性格の事業家や科学者が仏教の教えに感動することも少なくありません。

では、なぜ仏教が私たちの生活にとって大切なのでしょうか。それは仏教が「生きづらさ」を解決する教えだからです。

今回はこのことを解説します。


仏教が教える「生きづらさ」

「生きづらさ」について、仏教では「四苦八苦」という言葉で教えられています。この言葉は日常でも使いますが、実は仏教由来の言葉なんです。

この四苦八苦は、この世の生きづらさを四つの苦しみとして「四苦」と教え、さらにそこに4つ加えて「八苦」としています。

字数の都合がありますので、今回は代表格の「四苦」を解説します。

四苦の「生きづらさ」

まず、四苦は以下の四つです。
・生苦 生きる上での苦しみ(生きづらさ)
・老苦 老いていく苦しみ
・病苦 病の苦しみ
・死苦 死の苦しみ

生きる上では、人間関係だったり、生活面だったり、仕事や収入、経済面だったり、あらゆる悩みが付き纏います。これらは生きづらさの一つの原因となっています。

仕事でも生活でも対人関係から離れることはできません。意気投合できる人もいれば嫌いな人もいます。ですが、それらの人を選り好みなんてできません。嫌な人とも付き合い、時には嫌な人に囲まれてしまうこともあります。嫌な人とまで行かなくても、価値観が合わず、あまり打ち解けられない人たちに囲まれる時もあります。こんな時は、生きづらさを感じるのではないかと思います。

生活や収入の面でも同じです。最近は増税や物価高で経済面が苦しいのが現状です。その状況においても、生活費、養育費、学費、介護、医療、保険料などなど、、、増税、物価高の影響にかかわらず支出は減ることがありません。こういう面でも行きづらいと思います。

そんな曲面を一つ一つ乗り越えていっても、さらに立ちはだかるのが老いや病です。誰一人として永遠に10代や20代でいることなんてできません、日々刻々と歳をとり、歳を取るごとに老いや衰えを感じずにはいられません。30代くらいなら「歳を取ったな」と笑っていられるかもしれませんが、さらに歳を重ね、生活や仕事にも影響が出てくると、もう笑ってなんていられません。

また、歳を重ねていくとどこか疎外感を感じる人も多いと思います。高齢になれば若い世代からは疎まれますし、世代が違う若者とは話が合わずコミュニケーションが取れない、こんなことは多いと思います。こういう生きづらさが老いとともに現れます。

また、病の苦しみもいつ襲ってくるかわかりません。癌、脳卒中、心筋梗塞のような恐ろしい病気もあれば、認知症やアルツハイマーのような病もあります。最近では精神面の病も多いです。

精神面の病はまだ社会的に認識されてない一面があり、症状が出ても周囲に相談しにくく、医師にかかっても症状を説明できなくて、うまく治療を受けられないことがよくあります。また、職場にそのことを相談しても「寝れない、食欲がない」程度の症状に思われてしまうことも多いです。ひどいケースは「根性がない、それは症状じゃなくて自分の性格だ」と突っぱねられることもあります。体の病も恐ろしく、生きづらいですが、それと同じくらい精神の病は生きづらさを感じてしまうものです。

生きづらを感じながら、老いや病の悩みにかられ、それらをなんとか対策して乗り越えても、最後に立ちはだかるのは「死」です。死は平均寿命に近づいたら訪れるのではありません。「今が死ぬ時だった」という時がくるのです。死に順番なんて決まってません。

事故や震災、急病でなくなった人の中に「今日死ぬ日だ」と思っていた人はいないでしょう。とある漫画家は、自身の集大成とも言える連載漫画を描き上げ、最終回を描いている最中にペンを持ったまま亡くなったそうです。私の友人で40代で急死した人がいますが、その人は次の月までいっぱいいっぱいに仕事もプライベートも予定を立てまま亡くなりました。

死はその人の都合とか、若いか老いているかなんて考えてくれません。ある日突然、眼前に死が突きつけられます。人間は「いつか死ぬ」のではなく「今死ぬ」存在なのです。

いざ、その死が突きつけられれば、これまで楽しかったこととか、喜んだこと、達成したこと、愛する家族、財産、、、何一つ役には立ちません。この死をいつ突きつけられるかわからない恐れも、「生きづらさ」を生み出す一つの原因です。

仏教は人生を海に例える

人生を「マラソン」だとか「長い散歩」だとか色々例える人がいます。でも今、生きづらさを感じている人に、人生をマラソンだとか散歩と思えるでしょうか。

仏教では人生を海に例えます。海に例えると、某漫画の海賊みたいに仲間と共に広い海を冒険するように思う人もいるかもしれませんが、そんなファンタジーなものではありません。

海は波が絶えない場所です。常に波が立ち続け、時には大きく荒れ、大きな流木を木端のように弄ぶ事もあります。私たちの人生はそんな荒れた海にたった一人で放り出され、波に揉まれ続けるようなものだと仏教で教えます。

悲観主義だと言いたい人もいると思います。ですが、この世多くの人が抱える生きづらを鑑みても、そう言えるでしょうか。常に不安が絶えず、職場でも家でも生きづらい、そんな常に落ち着かない不安な心境は荒波絶えない海が適切ではないでしょうか。

荒波とは「不安、困難、災難、苦難、生きづらさ」これらを例えたものです。生きづらさまで感じなくても困難も苦難も経験しない人なんていませんし、世間の成功体験に苦難困難が無いものなんてありません。他人の苦難はファンタジーのように眺めますが、自分の苦難は大問題、その問題が常に押し寄せ続ける様を荒波絶えない海に例えているのです。

人生の目的は沈まぬ船に乗ること

「人生は荒波絶えない海」と例える仏教ですが、悲観主義でこう言っているのではありません。この「人生は荒波絶えない海」の例えは

「荒波が絶えない海に沈まない救助の船があるんだよ」

と教えるために言われているのです。つまり、「生きづらい人生に解決の道がある」と教えているのです。

少し例え話をします。

とある医師いました。その医師が患者を診察したところ、とても自分の手に追えない難病を抱えていました。とても自分では治せない。しかし、自分の先生である名医なら、この病を治せる。医師はそう確信して、患者に症状の重さを一つ一つ説明していきました。その中には死のリスクや病の苦しさといった暗くならざるを得ない内容も含まれていました。ですが、医師は患者を励ましながら一つ一つ患者の難病を説明し、やっと自分の先生である名医を紹介しました。「私の先生であるこの名医なら、必ずあなたの難病を治せます。紹介状を書くので、私の先生のところへ行ってください」と医者は患者に説明しました。

この例えで、医師は患者に「死のリスク」とか「病の苦しさ」などのネガティブになることを話しています。でもそれは悲観主義とか患者を暗くさせるためでしょうか。そうではないです。

もし、医師が病の重さを説明しなかったら、患者は治療の必要性を感じず、紹介状を捨て、名医のところへ行かなかったかもしれません。あるいは、名医のところまで行かなくても、この医者で十分だろうと思って紹介を受けなかったかもしれません。病の重さ、苦しさや死のリスクなども含めてちゃんと病を説明したからこそ、患者は自分が難病患者だと自覚し、その治療のために名医への紹介状を受け取り、名医に心が向くのです。

仏教がこの世の苦しみや生きづらを解くのは、ちょうどこのような理由です。「人生は楽しい、素晴らしい、生きているだけで素晴らしんだ」と根拠のない美辞麗句を並べて盲信しているようでは、本当の幸せには程遠いのです。自分が持っている生きづらさ、苦しさ、押し寄せる不安、困難、災難、これらに真っ向から向き合わないと、本当の幸福になれません。ちょうど、患者が自分の病の重さを自覚しないと、適切な治療ができないようなものです。

仏教は、生きづらい人生に解決の道があるんだよ、と断言しています。荒波絶えない海で言えば、荒波が絶えず、空と海と水平線しか見えない海に放り出された私たちを助けるための、沈まない救助の船があるということです。

仏教はこの「生きづらさの解決」を教えたものです。

解決のための「聴聞」

では、その生きづらさの解決、沈まない船に乗るために、私たちはどうすればいいのでしょうか。

仏教は「聴聞に極まる」と教えられます。「教えを聞く一つ」ということです。

これは単に聴いていればいいというものではありません。先の医師と患者の例えでも、患者は医師の話を真剣に聞きました。難病を自分自身のこととして、よく理解するためです。

まず自分が苦しんでいることや、自分の生きづらさ、これらをちゃんと理解しないと、解決も何もありません。世間で「生きづらさ」とか「生きる苦しみ」というものは色々論じられますが、的外れなものも多くあります。そんなものを信じているうちは本当の解決なんて程遠いものです。

仏教の教えを真剣に聞くとことから解決の道は始まります。聞かなければ始まりもしないのです。では何を聞くのか

・仏教はどんな人のために説かれたか?
・仏教はどう助けると教えているか?
・仏教は助けるためにどうしたか?

これらは、仏教の「生起、本末」と言われます。この仏教の生起、本末を真剣に聞いて、その通り実践することが「仏教を聞く」ということです。

教えを真剣に聞くことと、その通り実践すること、この二つを両輪として「聞く一つ」と教えています。

生きづらさを抱えた人は多くいますし、私もその一人です。ですが、仏教にはその解決の道は確かに教えられています。もし、少しでも仏教の教えに興味を持ってもらえたら、解決の糸口にでもなればと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?