強い心とは? ~折れない心、折れる心、折る事ができない心~

「鋼のハート」とか「豆腐メンタル」とか心の強い弱いを表現する言葉は多々あります。強い心を持つことはいい事ですし、そうなれず心が弱い、または繊細な人ならそれなりのフォローや対応が必要ですから、こういう言葉は当然必要な言葉です。

ですが、強い心とは実際どんな心でしょうか。どれだけ罵倒されてもおれない心でしょうか。初志貫徹できる心でしょうか。どんな逆境でも笑顔でいられる心でしょうか。強い心を持つことはいい事とされますが、その心事態は結構漠然としています。

この心は仏教でも大切なことと教えられています。心はすべての言動の大元であり元凶です。その心を良くする、強くすることは仏教でもいい事です。ですが、世間でいう「強い心」とか「強靭なメンタル」といわれるものとは少し違います。今回のタイトルはそこを例えた表現でもあります。

今回は仏教でいう「強い心」とはどんな心かを解説します。

折れない心

最初に世間で言われる「強い心」は仏教の観点からいうとどうか、という所を解説します。

結論から言いますと「強い心になることに執着すると良くない」と言えます。理由としては「強い心は続かないから」です。

世の中には「心の強い人」なんていくらでもいます。億近い借金抱えても「まあ殺されることはない」と開き直り、借金返済の道を突き進む人もいますし、財産全て失っても「どん底に落ちたのだから、あとは上がるだけ」と立ち直れる人もいます。多分自己啓発系の話を掘り起こしたら、こういう考えの人はかなりの数出てくると思います。

ですが、この心というのは必ずしも続くものではありません。

諸行無常という言葉が仏教にはあります。これは「すべてのものは続かない。かならず壊れる」というものです。この「すべてのもの」には人間の心も含まれます。

つまり、「心が強い人」というのは「今、心が強い状態にある」だけであって、決して必ず壊れない心を持っているわけではないんです。

実際、心が強いと言われる人は、必ず心を保つための何かしらの習慣を持っています。毎朝一定距離を走る、決められた時間に掃除をする、30分昼寝をするとか、いろいろです。それらの習慣がないと、心を保てないからその習慣を行っているんです。もともと心が強く壊れないなら、そんな習慣はいりません。

といっても、心を強く持つことを仏教は否定しません。むしろ、そういう習慣を持って、自身の心を保つことは善い事です。ですが、心の実態は諸行無常のものなので、「強い心」に固執、執着すると、良くないことが起こるので注意が必要です。

折れる心

これは仏教の用語にあるものではないのですが、世間でも、仏教の教えの上でも大切なことです。

私はこの心を三味線で知りました。

三味線は形はイメージできると思います。左手を添える棒状の部分を竿といいます。あの竿は実は一本ではなく継ぎ目があり、その継ぎ目は弱めの接着剤で接着されています。弱めと言っても、そこそこ接着力はありますが、瞬間接着剤みたいな強力な接着剤は使わないので、強い衝撃が加わると簡単に折れるように作ってあります。

なぜ楽器の大事な部分をそんな作りにしたのでしょうか。それは、接着剤が弱いおかげで、継ぎ目で折れてくれるんです。継ぎ目のないところでボキっと折れたら、もう使い物になりません。ですが、継ぎ目の接着が取れて折れてくれたのなら、また接着すれば使えるからです。

これを聞いたときになるほど、よくできたものだと感心しました。三味線は繊細な楽器です。故に壊れない強固な作りはできないんです。だから、壊れてもまた修復できるように作ってあるんです。つまり「強い楽器」ではなく、「壊れても直せる楽器」と言えます。

これは人の心に応用できます。要するに「折れない強い心」をもつより「折れてもちゃんと立ち直れる心」という所でしょうか。

実は世間で言われる「心が強い人」たちも、実は心が折れないのではなく、心が折れても立ち直れるような習慣をもっている、と言った方が適切に思えます。

人間の心というのは自己啓発とかスピ系とかが言うような強さは無いものです。仏教の教えでも人の心は弱く劣っているものだと教えられています。これは卑下でもなんでもなく、事実人の心は折れるものだということです。

釈迦も弟子に対して「弦楽器は、弦を張り詰め続けたら切れてしまう。時にゆるめることも大事だ」と教えたことがあります。折れない心を目指すのはいい事ですが、もともと折れてしまう自分の心をまっすぐ見つめ、折れる心にどう向き合うかが大事です。時に休むのか、折れないような努力をするのか、立ち直れる習慣を持つのか、自分の心と向き合い考えたいものです。

折ることができない心

この心は仏教でしか説かれていません。世間でいう強い心とか鋼の心とか言われるものとは全く違うものです。

仏教ではこの折ることができない心を「金剛心」とか「真実信心」「摂取不捨の利益」と言われます。漢字ばかりでわかりにくいですが、例えると「火は熱い」という所でしょうか。「信じる」「疑う」という概念が入り込めない「ハッキリしたこと」と言えます。

火傷の経験がある人が「火は熱いと信じる」こともなければ「火は熱いだろうか?」と疑うこともありません。もうハッキリしてるからです。この「火は熱い」とハッキリした心を折ることはできません。仮に熱くない火を作ったとしても、それはそれでしかなく、自然にある火は熱く、その事実をひっくり返すことはできません。

仏教ではこの「火は熱い」とハッキリするように、折れようのない、ひっくり返しようのない心があると教えます。それはどんな心かと言いますと「往生一定の心」です。平たく言いますと「死んで極楽浄土に仏に生まれるとハッキリする、一つに定まる」ということです。

この心は仏教でしか説かれていません。この心になりますと、生きている今から死んだあとが極楽浄土だとハッキリします。つまり、生きている今なれる心です。

死んだあとというのはだれしもがハッキリせず、あいまいな持論や臨死体験を持ち出して語られることしかありません。しかもそれらは結局死後の事ではなく、あくまで机上の空論です。

そんなハッキリしない死後がハッキリする心が「往生一定の心」であり、仏教が教える「折ることができない心」です。そして、人にはわからないのですが、これは最高無上の幸福と言われています。

この往生一定の心は折ることができないので、世界中の学者が総攻撃で「往生一定などあり得ん」と非難されても覆りません。また、仕事で怒られた、事業に失敗した、家族とけんかしてしまった、人間関係が悪くなった、などのどんな嫌なことが起こっても往生一定の心は全く変わりません。

これはなった人にしかわからない心ですが、仏教に説かれるすべての人がなれる心であり、仏教が本当に伝えたい心です。

この心になった人に浄土真宗の親鸞聖人などがいます。その親鸞聖人は「往生一定の心」について「喜ばしきかなや」「誠なるかなや」と「本当だった、嘘ではなかった」と喜び、「聞思して、遅慮することなかれ」と教えています。

聞思とは、この往生一定の心を教えた仏教を聞くことです。生きているときにこの心になれると言えど、教えを聞かないとわかりません。聞いて理解することが往生一定の心になることではないんですが、聞いて理解することを通らないと、その心になれません。遅慮とは疑ってモタモタするなということです。

すべての人がなれるからこそ、早く教えをちゃんと聞いて知って、その心になってくれと勧めているんです。

これは、理屈ではない上に、世間に同じ心はないので、「こう教えられている」としか言えませんが、私自身その心の存在を知らされたからこそ、この記事を書いています。

仏教の教えを解説するうえでこの「往生一定の心」を抜きにするのは、ナンセンスなことです。それを知ってもらうために世間でいう強い心、折れない心というものと対比して書いてみました。

余計わかりにくくなったかもしれません。ですが、わずかでも仏教の教えにふれていただけたら幸いです。

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