なぜモルヒネをうち続けたのか 〜映画を見ての独り言〜

仏教の教えを学ぶと、世間の映画や小説などが違って見えてくることがあります。私も仏教学ぶ前後で見え方が変わったなと思うことが多々あります。

昔見た映画や小説、音楽が、仏教の教えを学んだ後でこう感じるようになった、という経験です。仏教の観点は普段の生活にも新たな視点を与えてくれるので、学びや知識的な面以外にも面白みがあります。

なので、今回は昔見た映画のワンシーンが仏教の教えを通してみるとどうなるか、書いてみたいと思います。ただ、映画の内容に触れますので、多少のネタバレ含むこともありますので、苦手な方はご注意ください。また、内容はあくまで私の感想と、仏教の観点はどうか、という内容ですのであしからず。あくまで作者の独り言だと思って読んでください。仏教の観点以外はあくまで一個人の感想ですので不快な思いをされたら申し訳ありません。

今回取り上げる題材は映画「プライベートライアン」です。

プライベートライアンのあらまし

ストーリーまで詳しく説明するともう記事が長くなりすぎますので、あらましのみ書きます。映画の舞台は第二次世界大戦、ノルマンディ上陸作戦の時です。主人公であるマーシャル率いる部隊は、敵地行方不明となったライアンという兵士を救出に向かうというものです。

ほとんどざっくりですが、ストーリー全体はあまり重要ではないので、気になる方はプライムビデオやレンタルで見てみてください。

この作品は戦争ものなので、ストーリーが進む中で仲間の戦死する様が多く出てきます。その死に様は様々です。その中で、仲間の衛生兵が死ぬシーンがあります。このシーンが個人的にすごく印象に残っているシーンです。そして、このシーンは仏教の観点で深く見ると、人間が根源に抱える「ある心」が見えてきます。

それについて解説していこうと思います。

衛生兵の死

作中で何度も何度も「衛生兵は絶対に守れ」「衛生兵は死なせるな」という内容のセリフが出てきます。衛生兵は負傷した兵士を手当てする兵士なので、前線の医者にあたる存在です。なので、この衛生兵が死ねば、手当てする人がいなく亡くなり、負傷兵たちがどんどん死んでいく事態に陥ります。なので、現実の戦場でも優先的に守らなければならない存在です。

そんな衛生兵がストーリー終盤で致命傷を負います。慌てた兵士達はすぐに衛生兵の荷物を広げ「どう手当てしたらいい!?指示してくれ」と言います。

衛生兵は致命傷は負っていましたが、意識はハッキリあったので、自分の傷口を確認します。そしてまず「モルヒネを、、、」といいます。モルヒネは一種の麻薬ですが、鎮痛剤としての効果もあり、戦時中は多く用いられました。

兵士たちはモルヒネを取り出すと、衛生兵に打ちました。「次はどうしたらいい?」と兵士が聞くと、衛生兵はこう答えます。

「モルヒネを・・・」

この言葉を聞いた途端、全員が全てを察し、打ちひしがれた表情を浮かべます。その兵士達に衛生兵はさらにこう言います。

「モルヒネを・・・」

兵士たちは打ちひしがれるもの、泣くものがいる中、瀕死の衛生兵にモルヒネを撃ち続けます。その横で衛生兵は「モルヒネを・・・モルヒネを・・・」と何度も繰り返します。衛生兵は息を引き取るまでモルヒネを求め続け、兵士たちは彼が息を引き取るまでモルヒネを打ち続けます。

衛生兵は医学の知識があるので、自分がもう助からないことを知っていたんです。だから、モルヒネ以外の指示を出さなかったんです。その事実は2回目のモルヒネで仲間たちも察しました。この二回目の「モルヒネを・・・」というセリフは衛生兵の死を意味するのに、これ以上なく率直で重い言葉でした。

では3回目以降、モルヒネを求め続けたのはなんででしょうか。映画的には色んな解釈ができると思います。仏教の観点からも一つの解釈をすることができるのですが、これは世間的な解釈とは違うものです。

モルヒネの仏教の解釈

衛生兵がモルヒネを求め続けたこと、これは合理性だけでみると理にかないません。モルヒネの鎮痛効果は強力なので、死ぬまでの痛みを和らげるだけなら一回で十分だからです。むしろ、自分に一回モルヒネを打って、残りを今後のためにとっておけば、後々仲間のためになったかもしれません。なのになぜ、何度も何度もモルヒネを求め続けたのでしょうか。

仏教の解釈ではこうなります。

衛生兵が恐れたのは「死ぬ痛み」ではなく、「死んでいく先」だから

これは言葉尻だけではわかりにくいと思います。死の痛みとは、衛生兵が負った致命傷による痛みのことです。些細な切り傷でも痛いのに、命に関わる怪我ならその痛みは想像を絶します。ですが、この痛みもモルヒネを使えば和らげられます。つまり、衛生兵はこの「致命傷の痛み」をなんとかしたくてモルヒネを求めたのではありません。

衛生兵は医学の知識があったでしょうから、自分の傷が致命傷でもう助からないことを知りました。そのため、自分の死を真っ向から見つめてしまったのでしょう。自分の死を真っ向から見つめますと、問題になるのは「死んでどこへ行くのか?」ということです。

この映画にはキリスト教的信仰を持った登場人物がいますが、それに習って「神の元へ行くのか?」それとも「地獄へ行くのか」それとも何かに生まれ変わるのか、はたまた死後なんて無いのか。さっぱりわかりません。この死後がわからないことは人間にとって、命あるものにとって、最大の恐怖なんです。

そう言われても「確かに死後はわからないが、それが恐怖になるわけがない」と思われるでしょう。しかし、それは死を遠くに見つめているからです。ちょうど、檻の中の虎を見つめるようなものです。檻に閉じ込められた虎を見て腰を抜かす人はそういません。子供ですら興味本意でジロジロ見つめます。「死語がわからないことが怖いわけがない」と思っている人は、「死」を檻の中の虎のように見ているんです。

これが森の中で出会った虎ではどうでしょう。言うまでもないと思います。腰を抜かすか、逃げ出すか、動けなくなるか、恐怖で失禁するか、走馬灯が見える人も
いるでしょう。少なくとも「生きていられるだろう」と楽観視できる人はいません。衛生兵が見た「死」とはまさに森の中で出会った虎のようなものだったのです。

しかし、体の痛みはモルヒネでなんとかできても、死後の恐怖はモルヒネでも医学でもどうにもできません。だから、衛生兵はなすすべなく、ただモルヒネを求め続けたんです。モルヒネで解決できなくとも、モルヒネを打ってなんとかごまかそうとすることしかできなかった、こういうことができます。

仏教の観点からはこう解釈できます。そしてこの「死後の恐怖」と書いたものは、仏教では「無明の闇」と言われる心で、全人類一人残らず持っている心です。ですから、仏教の観点からいいますと、モルヒネを求め続けた衛生兵は、全人類の姿ということができます。

仏教が教える人間の姿

「人はいつか死ぬ」と言えばみんなそう思いますが、「今死ぬ」とは思っていません。「今が死ぬ時だった」という時が必ず来るのに・・・しかも、その死んていく先を知る人は一人もいません。

たまに臨死体験を死後の体験と言い出す人がいますが、それは「死に直面した体験」でしかなく「実際に死んだ体験」ではありません。しかも人間は死に直面したら脳内麻薬が大量に出ます。そんな状態でまともに死を見るととなんてあり得ませんので、臨死体験などは論外です。

この「死んだらどうなるかわからない心」こそが、先述の「死後の恐怖」であり、仏教で教える「無明の闇」です。そしてこの無明の闇は人の苦しみの根源です。

この無明の闇を抱えてどこか虚しく寂しく、苦しい人生を送っているのが全ての人間の姿です。ですから、大なり小なり、誰しもが孤独や虚しさを抱えて生きています。世間はそれを「楽しみがないから」「趣味生きがいがないから」「社会が悪いから」「生活環境が整ってないから」と色々理由をこじつけます。これらならまだいいのですが、酷いものになると「名前の画数」「誕生月」「風水、運気、パワースポット」などなど、根拠も何もないものにまで理由つけようとします。その結果が今の占いブームでしょう。

こんな姿は、最期にひたすらモルヒネを打ち続けた衛生兵と何が違うでしょう。生きている苦しみ、死後の恐怖、それらをなんとかごまかそうと、娯楽や社会福祉、占い風水などといったモルヒネを打ち続けているのが世間といえます。

仏教の教えはこんな全人類に対して、生活や趣味生きがいは大切なものだけど、それだけでは本当の解決にはならない、占いやら風水やらに依存すればもっと悪い結果になると警鐘を鳴らし、「本当の苦しみの原因と結果、本当の幸福になれる原因と結果」を道理から教えたものです。

先述の通り、本当の苦しみの原因は無明の闇と仏教では教えていますので、つまり仏教はこの「無明の闇」の解決の道を教えています。

最後に仏教の話を書きましたが、これ以上書くと趣旨から外れそうなので、ひとまずこの辺にしたいと思います。

今回は昔見た映画を思い出しての独り言でした。あくまで私の感想ですが、不快に思われた方がいましたらすみません。

仏教の観点が世間の娯楽や出来事に別の観点を与えてくれることだけでも感じてもらえたらと思います。


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