生きがいがなくても生きる目的はある

生きる目的と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。「人それぞれ生きがいや目的を見つければいい」というのがよくある意見ではないでしょうか。

この考えは実は「生きる目標」についてはその通りなのですが、「生きる目的」が人それぞれと言ってしまうととんでもない論理が成り立ってしまい、大変なことになってしまいます。

また、仏教でも「生きる目的は万人共通で唯一のもの」と教えます。なぜ人それぞれではなく共通のものなのでしょうか。それを解説します。


その生きがい、いつまで続いた?

世間で「生きがい」と言われるもの、「生きていく目的」だと思われているものはどんなものがあるでしょうか。結婚や子供の成長、仕事や事業の成長だったり、中には食べることや酒を飲むことという人もいるでしょう。

例をあげたらキリがないので、ネットで「生きがいの図」というのがありましたので、それを上げて書きます。画像はググってみてください。大体最初に出てきます。

・好きなこと
・世界が求めること
・お金になること
・得意なこと

この4つの要素の全てが重なるところが生きがいとのことでした。そして、この4つの要素のうち、好きなことと得意なことは人それぞれですから、確かに生きがいは人それぞれでみんな違います。

最初に誤解を招かないように書きますが、この記事は決して、断じて生きがいを否定するものではありません。この4要素をもとに生きがいを見つけることはとても大切なことです。

ですが、この生きがいは決して生きる目的ではありません。なぜでしょうか。

それは、4つの要素全てが続かないからです。

人の好きなことも得意なことも変わります。苦手分野を克服して得意分野に変わることもあれば、逆に得意だったことが苦手になることだってあります。好きなことなんて変わり通しで、興味が尽きれば飽きてしまいます。興味が尽きたことや、得意でなくなったことをやり続ければ苦痛でしかありません。

お金になることと世界が求めることも実は変わり通してです。昨今は特に変化が激しく、20年前のビジネススタイルはもう昨今は古くて使えません。世界が求めたことも100年前は領土の拡大、50年前は経済成長、現代は紛争の解決と安全保障と目まぐるしく変わっています。

世界の定義を会社レベルまで狭めて考えても、昭和ごろは大量生産消費に乗って売り上げ、業績の向上、平成は不況の煽りから無駄の削減と他社との差別化、令和は職場環境の改善と原価高の対策からのコスト低減と視野を広めても狭めても変わり通しであることに変わりありません。

つまり、生きがいをどれだけ見つけようと、それは長く続かないんです。自分の好きなことや得意分野が変わらなくても、世界やビジネス形態が変わればそれは生きがいの図から外れてしまいます。ビジネススタイルや世界が変わらなくても、自分の好きなことや得意分野が変われば、それは生きがではなく退屈な仕事になります。

こういうと「だから常に生きがいを見つけて行かなきゃいけない」という人が多くいますが、では生きがいを見つけていった先ってどうでしょうか。

求めて求めて求めていった先

変わり通しの世の中で生きがいを探し見つけ続けていった先はどうでしょうか。当然ですが年月が過ぎれば歳をとります。歳を取っていけば肉体労働はキツくなっていきます。頭の回転も鈍くなりますから、昔でいうところのIT、現代ならAIなどの先進技術も受け入れにくくなります。

お金の稼ぎ方は法改正や新しいツールの発明などで変り通しですから、ついていくにはかなり柔軟な思考が必要です。何歳までその柔軟性を維持できるでしょうか。

体を壊せば求められる生きがいは限定されてきます。肉体労働は体が資本ですから、体を壊せば終わりです。もし壊したのが精神なら一通りの仕事はできません。

それらがなくても死ねばもう求めることはできません。人は誰しも「いつか死ぬのは当たり前」と言いながら「今自分は死ぬかも」とは思っていません。ですが、私の知人で20代で交通事故で死亡した人もいれば、30代で白血病で亡くなった人、40台で動脈乖離で亡くなった人、50代で癌で亡くなった人がいます。昨日まで現場で元気に働いていた会社の70代の会長が突然亡くなったこともありました。人が死ぬのに年齢や健康状態なんて関係ないんです。

今、人は死ぬんです。

生きがいを求めて求めて求め続けていった先というは結局のところ「今日が自分の死ぬ日だった」という日だけです。では何のために求めてきたのでしょうか。

求められなくなた人はどうなる?

死ぬまで行かなくても、求められなくなることはあります。世の中に生きがいがない人はいくらでもいます。その中には病気や障害で求められない人もいますし、犯罪を犯してしまった人もいます。寝たきりになれば求めることはできません。懲役刑などに処されれば生きがいもほとんどないでしょう。

ではこれらの人たち、生きがいを求められない人は生きる目的がないのでしょうか。生きる目的がないのなら死んでも問題ないことになってしまいます。もちろんそんなことはありません。

再度重ねて書きますが、この記事は決して生きがいを否定するものでもなければ、生きがいを持てない人を否定するものでもありません。

生きがいは生きる目的ではないと言いたいのです。

その理由は生きがいを持てない人はたくさんいて、その人たちに生きる目的がないということになるからです。

仏教ではすべての人に人間として生まれてきた尊い目的がある。それは万人共通のものだよと教えているのです。

その言葉が有名な

天上天下唯我独尊

という言葉です。この言葉はどこまで行っても誤解が多いですが本当の意味はこうです。

「大宇宙広しといえども、我々人間にしか達成できないたった一つの尊い目的があるのだよ」

ということです。この生きがいと関係のない万人共通の生きる目的を教えているのが仏教です。ですから仏教では生きがいを持てず苦しんでいる人だってちゃんと生きる意味、目的、使命がちゃんとあるんだよと寄り添っているのです。

生きがいを持てない人を捨てない仏教

仏教ではすべての人に生きる目的があり、それは万人共通のものと教えます。そしてその目的には生きている時に達成があります。

その達成した境地を様々な表現で書かれているのですが、その中に

摂取不捨の利益

というものがあります。漢字が多いので噛み砕いて説明します。

・摂取不捨の利益(せっしゅふしゃのりやく)
まず「利益」は幸福とか幸せという意味です。摂取不捨の幸福ということです。摂取不捨とは「おさめ取って捨てられることがない」という意味です。つまり世間の幸福のように壊れたり崩れたり捨てられたりすることのない幸福ということです。ですから、本当の人生の目的は裏切られることがないんです。壊れて虚無感に苛まれることもありません。

また、摂取の「摂」の字には「逃げ回るものを追いかけ追い詰めて納めとる」という意味があります。こう書きますと物騒に聞こえますが、要するに「疑い謗り、反発している人も見捨てない」という意味です。

他宗教だと神を疑う人は救いの対象外になったりしますが、仏教では仏の教えを疑い反発する人も救いの対象です。なぜなら仏教が教える人生の目的は、犯罪を犯してしまった人やすべてを失った人、どんな悪行に加担してしまった人も見捨てない教えだからです。そんな人たちも平等に人生の目的達成まで導く教えが仏教です。

だからこそ、捨てられることのない「摂取不捨の利益」つまり人生の目的を教えているのです。

真剣の仏教を聞いて行きますと、この摂取不捨の利益になったという瞬間があります。これを一念と言いいます。一念とはこれ以上ない短い時間という意味なので時間がかからないということです。

世間の幸福、例えば受験や昇進試験などでしたら、試験を受けて認定されるまで時間がかかります。その間に大怪我、病気、最悪亡くなってしまったら合格していても無意味になります。

ですが、摂取不捨の利益になるときは一念の瞬間ではっきりしますので、もう余命幾ばくもない人も対象外とはならないのです。

どんな大病を患おうとも、どんなハンデをおっていても、どんなひどい境遇に陥っている人でも見捨てない、必ず達成できる万人共通の目的が人生の目的なのです。それを仏教では摂取不捨の幸福と言っています。

その摂取不捨の利益になるには、人生の目的達成するには「仏教を真剣に聞く」ことが大切だと教えます。この摂取不捨の利益自体が世間で生きがいとか生きる目的だと認識されているものと真っ向から違います。

むしろ世間の生きがいと摂取不捨の利益を混同していたら、わかるものもわかりませんし、わからないものになれることなんてありません。弁護士が何なのかわからないけど弁護士になれたなんてことはありえないのと同じです。

まず仏教とは誰に対して教えられたのか、それはあなた自身のためです。そしてあなたに何を教えようとしているのか、そのためにどうしたのか、これらを真剣に聞くことが仏教の第一歩です。

今回は生きる目的というところから仏教の内容を書いてみました。少しでも興味を持っていただけたら幸いです。


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