正しい努力はモノを言う

今回は六度万行の4つ目、精進です。

精進は日常生活でも使う言葉ですね。「努力」の意味です。

これは世間的にもいいことだと認識されています。

努力する事は人からの信用にも繋がります。例えば仕事で何があっても腐らず直向きに努力精進する人は信用を得ます。信用を得ますから、仕事を任せてもらえたり、あるいは助けてもらえたりといい事は種々に起こります。

実際、上司でも部下でも友人知人でも家族でも、直向きに努力精進する人は信用されますし、好印象をもたれます。

これは聞いた話ですが、ある会社にとても仕事ができない学生がインターンで入ってきたそうです。その学生は人より遥かに仕事も遅く、仕事の質も悪かったそうです。彼と同期に入社した社員やインターン生達は次々結果を出していく中で、彼だけ取り残されていたそうです。ですが、彼は一切腐らず、いつも明るく元気で仕事に取り組み続けたそうです。そんな彼に周囲も信頼を寄せ始め、インターン生ながら仕事を任せられることも多かったとか。

本来仕事のできない人に仕事は任せられませんが、彼は一切腐らずにヤケも起こさず実直に仕事に向かい精進する姿に、会社の人達は心打たれたのでしょう。実際、仕事ができなくても、腐らず精進し続ける人は応援したくなります。

ですが、ひとつ注意は必要です。

むかし「頑張らない」みたいなタイトルの本が出まして、知り合いがその本のことをボロカスに言っているのをみました。言い分を要約すると「自分らみたいに才能のない人は努力するしかない。なのに頑張らないなんて何事か?」という内容でした。

この人の言い分も最もですが、一つ見落としていることがあります。

確かに努力することは大切です。ですが、努力はあくまで手段であるということです。「正しい目的に向かっての努力」は実を結びますが、「間違った目的に向かっての努力」や「方向性のない努力」ならやめるべきです。

以前、オレオレ詐欺グループが検挙されたニュースを見ました。色々見てみると、オレオレ詐欺グループ内でも、成績の競争と上位入賞の報酬があったとか。営業マンが成績や成果報酬を競うようなスタイルが詐欺グループにもあったそうです。

営業マンが成績を競うのは利点欠点あれど、いいことではあります。本来営業は良い製品を社会に流通させてお客さんを良くし、さらに自社を良くして、社会をよくする為のものです。それに実直になるのはとても良いこと。ある程度の競争や成果報酬は、その活動を促す事にもなります。

ですが、それがオレオレ詐欺では、努力すればするほど社会が悪くなりますからむしろ挫折して欲しいです。このような悪い目的に向かえば、努力も善ではなくなります。

また、例え努力しても方向性がない、あるいは間違っていればそれも無駄になってしまいます。例えば今ワープロ検定合格を目指して努力するというのはどうでしょうか?もしそれが「自己満足」や「興味本位」で努力するのはいい事です。自己満足や興味を満たすことは悪い事ではありません。

ですが、「良い仕事につくため」にワープロ検定を努力するというのはどうでしょうか?悪い事にはなりませんが、ワープロ検定が今日仕事でどこまで役立つかは疑問です。

努力、精進はあくまで手段です。手段は目的あってのもの。目的が定まってはじめて正しい手段が決まり、それに実直になって初めて良い運命が訪れます。目的がなかったり、そもそも間違っていれば、良い運命は訪れません。もし目的が「オレオレ詐欺」なんてものなら悪い運命しかまってません。

例えば日本からアメリカに行こうと目的を定めれば、飛行機や船などの交通手段が決まります。この時、アメリカに行きたいのに陸路を選べばアメリカにはいけません。

正しい努力精進は、正しい目的と、今の自分自身がわかって初めてできる善なのです。これは精進に限らず六度万行、「善」そのものが手段と言えます。

仏教では、その正しい目的と、それに向かう手段をそれぞれ教えています。仏教は「善のすすめ」と先回書きましたが、その善も目的に向かっての手段ですから、当然目的もセットで説かれなければ意味がありません。

その目的とは、最初の方の記事で書いた「幸せになる事」です。「今の自分自身」を知り、「幸せになる」という目的に向かって手段(善)を実践します。そして、また様々なことが見えてくるのです。

ですから仏教は善のすすめですが、「人間とは何か」「幸せとは何か」と言う事も説かれています。これらは決して切り離せないのです。このあたりは後日詳しく書きます。

話を戻しますと、先の「頑張らない」という本は、内容的には「目的のない努力や、方向性のない努力をしない」という意味だったのでしょうが、知人は「頑張らない」という言葉だけで「努力なんていらないということか!?」と反発していたように思えます。

努力精進が善ではないなんて事ありませんし、仏教的にも世間的にも実践すべき善です。ですが、何事にも目的や方向性があるように、努力精進も正しい目的が前提になる事を知らなければなりません。

皆さんが今行なっている努力はどうでしゎうか?また、「こうなりたい」という目的にちゃんと努力できているでしょうか?一度ふりかえってみてはいかがでしょうか?

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