「与える」の仏教的考察

今回は人に与える事、「布施」を実践する上で注意したい事を仏教的観点で見ていきます。

「人にちゃんと与えたのに悪い結果になった」という経験は何かしらあると思います。人に与える事は善い事なのに、なぜそのようになるのか?今回はこの事の仏教的考察です。

「三輪空」という言葉があります。これは、人に何かを与える時、つまり布施する時に心がけるべき事です。具体的には「布施するとき、3つの事を忘れよ」という事です。

・誰が与えた(私)
・誰に与えた(相手)
・何を与えた(与えたもの)

この3つの事を布施する時に忘れなさいと言うのが「三輪空」です。

なぜ、この3つを忘れなければならないのか?もし、この3つを執拗に覚えていたら、どうなるでしょうか?

例えば、アナタが友人の誕生日に1万円相当のプレゼントを買ったとします。友人のプレゼントで1万円ならなかなかの額です。友人は当然喜ぶでしょう。しかし、この「私が友人に1万円相当のプレゼントをあげた。」という事を執拗に覚えていると、後々様々なことが気になってきます。

どんなことかと言いますと
・あれだけしてあげたのにお返しがない
・あれだけしたのにあと態度はなんだ
・あれだけしたのになぜあんなこと言うんだ
・あれだけしたのに自分の誕生日にはなにもない

など、このようか感情です。一言で言うと「見返りを求める心」です。この心は非常に危険です。

なぜなら、「人にモノを与える」ことは当然「善」です。しかし、「見返りを求める心」は「悪」です。見返りを求める心があると、何もお返しがなかった時に「怒り」や「愚痴」の心が湧いてきてしまいます。その結果どうなるかと言えば、「こんなことならやるんじゃなかった」とか「もう与えるのはやめよう」と、善を放棄してしまいます。

善いことをしたのに、悪い結果になる、このような事態の裏にはこの「見返りを求める心」がある時が多く感じます。

そもそも、見返りを求めると言うことは「これを与えたらこれだけは返ってくるだろう」と思って与えることになります。しかし、ビジネスの取引ならまだしも、個人のプレゼントやお土産などならば、お返しは来るか来ないかはその人次第です。時にはお返ししたいけど、色んな事情で返せない人だっています。

それに、この「見返りを求める心でモノを与える」ことはそもそも布施ではありません。布施は本来見返りを求めて行うことではないのです。

「目は口程にものを言う」とも言われるように、自身の心は案外、表情や仕草、言動で相手に伝わります。「見返りを求める心」が相手に伝われば、相手はお返しする気持ちが萎えてしまうでしょう。善い報いが返ってくる道理がありません。

もし、本当に見返り求めずに与えたのに善い報いがなかったとしたら、2つ考えられます。

・気づかないところで見返りを求めてた
・善い報いが訪れるのはまだ先

一つ目は気をつけたいところです。この「見返りを求める心」は思うより根が深いのです。「自分はそんなこと思ってない。」と思っていても、今一度省みる必要があるのです。

二つ目は、これはよくあるケースです。野菜の種なら数週間〜数ヶ月で収穫できますが、桃や栗は3年、柿なら8年かかります。植物にも実をとるまでに時間がかかるものがあるように、善い報いが来るまでに時間がかかる「善」もあるのです。

「果報は寝て待て」と言う言葉があります。これは「善い報いがくるまで寝ていろ」ではなく、

「善い報いはいつ来るかわからない。なので、すぐ報いが来ないからといって投げてはいけない。善い報いが来るまで善を行うよう精進を重ねる日々を繰り返しながら待ちなさい」

という事です。

せっかく善いことをしても、見返りを求めていれば、見返りがなかった時は嫌な気持ちにやり、見返りがあれば慢心してしまいます。これでは、いずれやる気も失せてしまいます。

「見返りを求めて」善いことをするのではなく、幸せになるためにするのです。これは「『自分が幸せになる』という見返りのために善いことをする」のではありません。

相手に善いことをした時、相手も幸せになり、自分も幸せになる。これが本当の幸せです。

今、まさに助け合いや言葉をかけるなどの「善いこと」が必要とされる時ですが、今一度善い事をするその心「見返りを求めていないか」をふりかえってみてはいかがでしょうか?

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