大樹の種は小さい

今日はとあるお釈迦様のエピソードを紹介したいと思います。

ある時、お釈迦様がある貧しい家を訪ねました。出てきた家の奥さんはお釈迦様の姿を見て「この人はただものではない」と思い、何かを布施したいと思いました。

当時のインドでは、尊い僧侶や修行者にモノを布施することは良い事とされていたのです。

ですが、貧しい家に何もなく、またまた台所にあった麦こがしを一つ布施しました。するとお釈迦様は「そなたのその心(モノを布施してくれた心)は、やがて悟りを開く因(原因、いずれ結果を生む行いのこと)となるだろう」と言いました。

ようは、「この布施した心によってやがて本当の幸せになれる」という事です。

それを聞いた家の主人が飛び出してきて「そんな麦こがし一つの些細な布施で悟りなんであるか!」と反論しました。

するとお釈迦様は「そなたが今まで見たものの中で最も大きなモノはなんだ?」と聞きました。主人は今まで見た中で最も大きな木を答えました。するとお釈迦様「なるほど、ではその木の種はよほど大きいのだな」と聞きます。そんなはずありません。大樹と言えど種は小さな粒です。それを答えるとお釈迦様

「そんな大樹の種がそんな小さいだと?私は信じないぞ」

この一言に家の主人は自分の発言の愚かさを知りました。

この家の主人は何を知ったのでしょう?それは「何事も最初は小さなことから始まる」事です。

今成功を収めて多くの人から信頼を得ている人も、最初は周囲の信頼もそれほどなく、大きな結果も残していない所から始まっているんです。そこから、小さな成功を得て小さな信頼を得る所から成功への道が始まるのです。

実際成功者の自叙伝など見ても、最初はとても大きな成功につながるようなことをしているようには見えません。ですが、それがやがて大きく成長して大きな成功になるのです。

悟りについても、それと同じです。ちょうど、どれだけ大きな木も、小さな一粒の種から始まっているようなものです。

先の話では、家の主人はお釈迦様の話を聞いて、妻の小さな善が、やがて大きな悟りにつながるのだと知り、小さな善を馬鹿にした自分を恥じたのです。

現代でも似たようなことはないでしょうか?自己啓発やコンサルの世界ではノウハウを教えることが多いですが、いつのまにか「近道」を教えることが多くなってないでしょうか。

成功者達で、誠実に語っている方の話を聞くと、みんな小さな泥臭い努力の積み重ねから始まっています。最初から近道して成功した人はいません。

もちろん小さな努力をなんでもいいからやればなんでも成功するわけではありません。ちゃんと努力の目的やそれに見合った内容と量が必要になります。

しかし、昨今の成功の「近道」が求められている背景には、この小さな努力、小さな種をおそろかにしている所があるのではないでしょうか?

よくよく、自分の心と行いを見つめ直したいものです?

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