生きる手段を失うより怖い事 ~本当の一大事を教える仏教~

「生きる手段」と聞くとどんな事を思い浮かべるでしょうか。検索してみると「食料を調達する方法」だったり「困難に立ち向かう心得」だったりと色々出てきますが、昨今の言葉で言えば「仕事」とか「生活」というような言葉に収まるように思えます。

生きる上で「生活」と「仕事」はどちらも大切です。どちらかだけで生きていく事はできません。ですから世間はこれら「生きる手段」を失わないように種々に創意工夫します。

保険に入ったり、収入源を増やしたり、仕事と生活のバランスを考えたりするのは、それらを失うリスクがあるからです。失いようのないものや、失っても苦しまないものに保険はかけません。日々の生活の工夫は、これらを失わないように、失っても大丈夫なようにと努力しているようにも思えてきます。

ですが、仏教ではこれら「生きる手段」を失う事より、はるかに恐ろしいことが起こっていると警鐘を鳴らしています。今回は「生きる手段を失うより怖い事」を解説します。

生きる手段を失うとは?

最初に冒頭で述べた「生きる手段を失う」ということについて、もう少し詳しく見ていきたいと思います。

生きる手段として最たるものと言えるのは「収入」や「資産」とか「財産」と言われるものではないでしょうか。収入を失えば路頭に迷いますし、資産や財産を失うことは、要するに破産です。どんな大金持ちでも資産家でも、自分の財産を失わないよう一生懸命です。

また、家族や恋人、友人などを持つことも一つの生きる手段と言えます。要するに人間関係です。極論を言えば人間は無人島で一人ぼっちでも生きていくことは可能です。ですが、そんな人は稀の中の稀でほとんどすべての人間は誰かしらのほかの人間と関わって生きています。その人間関係を失うことは非常に苦しい事です。話を聞いてくれる人もいなければ孤独です。困ったとき助けてくれる人がいなければ悩み苦しみます。最愛の人に先立たれたショックで寝込み、そのままなくなってしまうというケースだって聞きます。人間関係も人間が生きていく一つの手段であり、なくしたら深く苦しむほどに大切なものと言えます。

他にも健康、仕事ですとか、趣味、生きがい、目標などなど、いろいろ上げられると思いますが、どれも程度の差はあれど失えば悩み苦しむものばかりです。

「生きる手段を失う」ことはとても苦しい事です。これは理解できるかと思います。今あなたが全財産失い、仕事も失い、仕事ができる健康状態も人間関係もすべて失うとなったら、どうでしょう?なんとか回避できないかと一生懸命になりますよね。それだけ生きる手段は大事であり、それを失うことは大変なことです。

では、この大変なことを超える一大事とはなんでしょうか。次に仏教で説かれる一大事を解説します。

もっとも恐ろしい事は「生きる目的がわからないこと」

仏教が教える一大事とは「生きる目的がわからないこと」です。これを聞けばほとんどの人は疑問が起こると思います。

世間では「生きる目的」と言っても思春期に悩めば十分くらいに思われているように感じます。「生きる目的がわかりません」と悩みを打ち明ければ病んでいるのかとメンタルクリニックを勧められるか、何か頭のおかしい人と思われるでしょう。

ですが、これは世間の認識が間違っているところです。「生きる目的」は世間が思うほど軽くありません。それどころか生きる目的がわからなければ生きる手段すべてが無意味になります。

それどころか、生きる目的がなかったとすると、私たちの人生はただ死に向かっているだけの時間となります。誕生日は誕生を祝う日と言うより死に一年近づいた日となってしまいます。目的も何もない人生にどうして誕生の記念を祝う必要があるでしょうか?

生きる目的はとても大切なことであり、それがわからないのは一大事です。ですが、世間は「生きる目的がわからない」というより「生きる目的を間違っている」と言った方がいい状態です。

「生きる目的を間違っている」のはわからないのと同義

生きる目的を間違っているというのは「生きがい」や「趣味」「楽しみ」などの「生きる手段」を生きる目的と思い込んでいるという事です。

ハッキリ言いますと「楽しみ」「趣味」「生きがい」は生きる目的ではありません。これらはすべて大切な生きる手段ではあります。ですが生きる目的とは1ミリもかすらない完全に違うものなんです。

これには二つの観点からいう事ができます。

・一つは失うことがあるからです。

これらは必ず失いことがあります。趣味がつまらなくなることはあります。また10代で楽しかったことが20代、30代でも同じく楽しいとは限りません。

一度失った楽しみはほとんど全てのケースでもう二度と戻りません。戻ってくるケースは無くはないですが、それを考察するのは時間の無駄というくらい戻らないケースの方が多いです。

また、失うリスクが伴うなら、いつまでたっても完成もなく、失うリスクにおびえ四苦八苦し続けることになります。完成しないものを追いかけ続けるのはその実苦しみでしかありません。求め続けることで苦しみに変わり、しかも達成して苦しみが報われることもないのなら、それは目的とは言えませんし、それを追いかけ続けるのは悲劇です。

・二つはもう求められない時が来るから

楽しみの類は病気、怪我、精神状態などによって簡単に崩れ去ります。私も経験がありますが、メンタルを病んだ状態だと普段楽しいと思うことも楽しくなく、むしろ苦痛に変わるものです。病気やケガはわかりやすいと思います。どれだけ食べることが好きと豪語する人もノロウィルスに感染した状態で食べる幸せは感じられません。

ノロウィルスなら療養で解決しますが、末期がんとか寝たきり、四肢の損失などまでいけば、もう生涯楽しむことができなくなります。アルツハイマーや認知症などになれば、一通りすべての楽しみも生きがいもできなくなります。

もし、楽しみが生きる目的なら、上記の楽しみを享受できなくなった人はなぜ生きているのでしょうか。答えられるなら答えてみてほしく思います。「生きているから素晴らしんだ」はダメです。そんな超論理を楽しみを求められなくなった人たちが納得できるでしょうか。

もちろんそんな人たちに生きる目的がないなんて絶対にあり得ません。生きる目的というのは、そんな人たちですら達成できるものなんです。それは仏教だけが教えています。

生きる目的は万人共通で絶対のもの

仏教を説いた釈迦は生きる目的がわからない、あるいは生きる目的を間違っている人たちに「生きる目的は万人共通で絶対のものだ」と教えました。釈迦はこう教えています。

天上天下唯我独尊

この言葉自体は聞いたことがあると思いますが、相当間違って理解されています。この言葉は釈迦が自分一人が尊いと自慢した言葉では断じてありません。

これは「大宇宙広しと言えども、我々人間にしかできない尊い使命がある。」というものです。この使命が「生きる目的の事」です。その使命は「唯」とついています。これは「唯一つ」ということです。つまり人によって変わるとか人それぞれみたいなものではないんです。万人共通で唯一のものなんです。

そして釈迦はその生きる目的を達成した境地を「不退転」という言葉で表しています。これは詳しい説明は字数の都合でできませんが、文字通り「退転することがない」という意味です。ですから趣味生きがいみたいに途中で亡くなったり、色褪せたりしないという事です。達成して絶対に崩れないという意味です。

浄土真宗の親鸞聖人はこの生きる目的達成した境地を「不退転」以外に「摂取不捨の利益」とも言い表しています。これは「おさめ取って、絶対に捨てられることのない幸福」と言えます。目的を達成したのに不幸になることはあり得ません。生きる目的を達成した境地は幸福であり、しかも絶対に崩れない捨てられない、死んでもなくならない境地だと教えています。

その境地にすべての人がなれると教えているのが仏教です。

先述の親鸞聖人は「仏教を聞くことが大切だ」と教えています。これには深い意味があるのですが、わかりやすいところを上げますと、そもそも仏教の教えをちゃんと聞かないと、この境地の存在も、そうなれることも知らないまま、生きる目的があるのかないのか、あるいは間違たまま苦しみ悩むことになってしまいます。

だから、まずこの境地が説かれる仏教を真剣に聞くことが大切なんです。

今回は仏教が教える一大事を、わかりにくかったと思いますが書いてみました。もし、少しでも関心があれば、仏教の教えを正しく真剣に聞いてみてください。必ずわかる時が来ます。


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