全てが「そらごと、たわごと」の世の中で生きる理由

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、万の事みなもって、そらごと、たわごと、真実あることなきに・・・」

古典で有名な歎異抄の言葉です。歎異抄は浄土真宗の親鸞聖人が言った内容を弟子が文章でまとめたものです。ですから口伝ではありますが、親鸞聖人の言葉という事です。

その言葉の中の一つが、この一節です。古典の言葉と聞くと、現代には関係のないもののように思えますが、この言葉はいつの時代であっても大切なことが含まれています。ですから、現代でも重要な言葉です。

今回はこの言葉を解説したいと思います。


煩悩具足の凡夫

まずは「煩悩具足の凡夫」という言葉を説明します。

まず凡夫というのは仏教用語で人間という意味の言葉です。次に煩悩具足とは「煩悩でできている」という意味です。

煩悩は「煩わせ、悩ませるもの」という事で、人間に108あると言われています。代表的なものは欲、怒り、恨みねたみの三つです。

私たちは無ければ無いで欲しい、あればあったでもっと欲しいと、際限なく求める欲の心があります。昭和初期の終戦間もないころは物も食べ物も無い事で苦しんでいました。それから復興が進み、昭和後期の高度成長期にくればものに恵まれた飽食の時代になりました。平成になっても、もっともっとと求め続けます。その心は令和まできた現代も変わりません。終戦ごろと令和の現代で雲泥どころでないほどの差があるのに、それでも満足できません。そんな心が欲です。

昨今だとミニマリストなんてものもありますが、あれは物に縛られない生活に執着する心からくるものです。昭和のころは物がある状態に執着し、現代のミニマリストはものに縛られないことに執着していると言えないでしょうか。これらの執着は欲の一つの形です。「ものに恵まれたい」とか「ものに縛られたくない」という「状態」を求め求め、求め続けているんです。これは良し悪しを語るものではなく、どちらも色形が違うだけで同じものだという事です。

その欲が満たされなければ怒りの心が起こります。飲食店で食事が出てこなければ苛立ちますし、自分の商売を邪魔されれば怒らずにはおれません。恋仲を邪魔されて怒りを覚えない人もいません。これが怒りの心です。

そんな怒りをぶつけられないときは恨みや妬みがおこります。相手が明らかに目上だったり、匿名性の高いネット上での犯行だったため特定できなかったりすれば恨むしかありません。こういう心が恨みねたみの心です。仏教では「愚痴」と言われます。

今あげた心に一つも心当たりのない人はいないのではないでしょうか。これらの心が煩悩であり、これはすべての人が持っている心です。

なので仏教では「人間は煩悩でできている存在だ」と教えます。欲も無ければ怒り恨みを持たない人はいません。また欲がなければ人間は生きてはいけません。食欲無しに生きれる人はいません。

こんなすべての人のことを「煩悩具足の凡夫」と言っているのです。

火宅無常の世界

次に火宅無常の世界とはどんな意味でしょうか。これは「不安が絶えない世界」ということであり、「私たち人間の住んでいる世界」でもあります。

「火宅」というのは「火が付いた家」という意味です。イメージしますと、隣の火事の火が家のひさしまで引火しかかっている状態です。こんな状態ではのんびり食事も昼寝もできません。飛び起きて食事も家財道具も放り出して逃げるでしょう。

「無常」とは「常がなく続かない」という意味です。私たちの世界は100年続くものは稀の中の稀です。世の中のブームなんて昨今は3か月も続かないこともあります。仕事の楽しみも1年続けば長い方でしょう。楽しい友人関係もよくよく見ますと5年続くものはそうそうないものです。時の総理大臣も10年続いたものはいません。どれだけ永遠の愛を誓った夫婦も100年しないうちに死に別れか生き別れとなります。

私たちの生きている世界は長年変わらず続いているように見えますが、よくよく見れば変わりどおしで続いているのです。一つ一つの事はあっという間に終わってしまい続きません。そんな常がなく続かない様を無常と言います。

この続かないものばかりで不安が絶えない世界を「火宅無常の世界」と表されています。

全ての人は病に苦しむ人

仏教ではすべての人はこの火宅無常の世界で煩悩に翻弄されている存在だと教えます。上に書きました「煩悩具足の凡夫」も「火宅無常世界」も、1ミリも引っかからない人はおそらくいないでしょう。

こう書きますと至極ネガティブな表現のように思えます。ですが、仏教は決して虚無主義とかネガティブ思考でこんなことを言っているのではありません。

例えるなら、病気に侵された人は自分の病気について医者に診断してもらい、その実態を正確に知らないと治療して全快することもなく苦しみ続けます。医者から診断結果を聞くのは緊張しますし、時に残酷な現実を突き付けられることもあります。ですが、それは決して虚無主義なんて言えません。

昨今、メンタルの病が多く報告されます。メンタルの病は症状も厄介ですが、治療につなげるのが難しいという点も厄介なのです。自分でメンタルに不調があるのではないかと不安に思って心療内科に行く人はいいですが、自分のメンタルの病に気付かなかったり、何か負い目を感じて治療を受けない人も多いです。その結果、悪化して周囲を巻き込む事態に発展する人も多いです。

メンタルの病で苦しむ人の中には治療を受けずに苦しんでいる人が多くいます。その人たちに「診断を受けるのは重苦しい内容を聞くことになるから診察を受けない方がいい」なんて言える人はいるでしょうか。

重苦しい内容でも、それはまぎれもない自分の事なのです。自分の事を真剣に聞かないのでは病の苦しみが完治するなんてあり得ません。

仏教は人間の本当の姿を一切包み隠さず教えています。今回の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」もその一つです。これは聞けばネガティブに聞こえますが、紛れもない自分自身の事です。それを真剣に聞かないのは、明らかな病にかかりながら「診断を聞くのが重苦しいから」といって一切医者にかからないようなものです。そんな人の末路は明らかです。

患者が重苦しくなってでも診断を受けるのは、自身の苦しみ悩みの原因である「病気」を知り、それを治療して完治させて幸せになるためです。

仏教は人間の苦しみの原因を明らかに教えて、その苦しみの原因を抜き取って、本当の幸せにするために教えられているのです。断じて虚無主義とかネガティブ思考ではないのです。

病の完治を誓った名医がいる

今回解説している言葉をもう一度見てみます。

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、万のことみなもって、そらごと、たわごと、真実ある事なきに・・・」

最後の部分が「なきに・・・」と続いています。この文章には続きがあります。この続きは非常に誤解されやすい内容です。なのでここまで読まれてから解説したかったのであえて伏せていました。

この文章はこう続きます。

「ただ、念仏のみぞ真実(まこと)にておわします。」

この念仏は非常に誤解されやすいところです。念仏と聞きますと「口で南無阿弥陀仏と称えること」と思われます。それ自体は間違ってないのですが、ここで言われている念仏とは「弥陀の本願念仏」の事です。この場合意味が違っていきます。

「弥陀の本願念仏」とは「阿弥陀仏の誓願」という意味です。

阿弥陀仏とは、釈迦の先生の仏の事です。いえ釈迦にとどまらず、すべての仏の先生にあたる仏の事です。その阿弥陀仏の「誓願」とは「願い誓われた」という意味なので、「約束」ということです。

阿弥陀仏という仏は、このすべての人の苦しむ姿、先述の「煩悩に苦しみ悩み、無常で不安の絶えない世界にいる人間」を見て、「必ず助ける」と誓いを建てました。

阿弥陀仏はすべての人の苦しみの根本原因を抜き取って、本当の幸せにするために長きにわたり考え抜き、長きにわたり修行して、それを成就しました。こう書きますとわかりにくいですが、医者でいうなら患者を救うために病気の原因を徹底解明して、それを治す薬を開発したようなものです。

そして、そんな阿弥陀仏のいることを私たち地球上の人間に教えに来たのが仏教を説いた「釈迦」です。例えるなら、阿弥陀仏は難病を治せる名医、釈迦はその名医を紹介してくれた医者、という所です。

釈迦は、人間の苦しむ実態をありのまま話しました。そしてそんなすべての人を助けると誓った阿弥陀仏の事を紹介され、阿弥陀仏に苦しみの原因を抜き取ってもらうにはどうしたらいいか、を解説されました。それが仏教の教えです。

釈迦は仏教の教えについて「真剣に聞くことが大事だ」と教えます。座禅瞑想ではなく、「教えを聞くこと」です。意外に聞こえますが、そもそも釈迦は医者が患者に症状を伝えるように、人間に苦しんでいる原因を教えているのですから、真剣に聞くことが大切なのは当然です。

また、阿弥陀仏も座禅瞑想で助かるなんて言ってはいません。座禅瞑想で助かるなら、今死のうとしている人や苦しみにおぼれて座禅瞑想どころでない人は助からないことになるからです。

仏教は真剣に教えを聞くことが大切なのです。そして、その通りに実践していくことが「教えを聞く」という事です。ですから先達たちは「仏教は聴聞に極まる」と教えていきました。

仏教とは聞くことが大切な教えであり、昨今の日本は仏教を聞く機会がないから多くの誤解が生まれています。

少しでも、本当の意味で仏教の教えが広まって欲しいと思い、こんな文章を書いています。もし仏教に興味を持つきっかけになってもらえたら幸いです。

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