仏教はこれ一つが肝要 〜一念という言葉の意味〜

今回は一念という言葉を解説します。この言葉は仏教の教えの中で最も大事な言葉です。

この言葉は仏教の肝要と言われる言葉です。肝要という言葉は世間でも使いますが、仏教では「これ一つ大切なこと」という事です。「要(かなめ)」というと、いくつかあります。大切なことというのはいくつかあげられるものです。ですが、要に肝とつけて「肝要」というと、たった一つ、これ以外ない大切なことという事です。あれもこれも肝要ということは、仏教ではありません。

仏教でこれ一つ大切ですから、逆に言いますとこれがないと仏教として最も大切なことが抜け落ちているということです。それくらい大切な言葉が、「一念」という言葉です。

今回はこの一念について解説します。

一念の一つ目の意味

この一念には二通りの意味があります。一つ目は「これ以上短い時間はない」という短い時間です。一秒の何億分の一よりも何兆分の一よりもまだずっと短い時間です。「最も短い時間」と解釈しても間違いではないのですが、この言葉は私たちがイメージできるほど簡単な言葉ではありません。

なぜなら、「最も短い時間」は私たちの認識に乗らないからです。例えて言いますと、年が変わる瞬間を認識できるでしょうか。「今年が変わった」と認識することはできますが、その認識した時は年が変わっています。年が変わった瞬間を「今」と言っていますが、今の「い」と「ま」を発音するのにコンマ何秒かかかっています。「今」と発音する間に「今」は過ぎ去り、「今だ」と認識する間に「今」は過ぎ去っています。

この「今」という「最も短い時間」は実は私たちの認識には乗らず、その実態を正確に理解するのは案外難しいのです。

そんな何億分の一秒も何兆分の一秒も無い、これ以上ない短い時間、という意味が一念の一つ目の意味です。

ですが、これだけではなぜ「これ一つ」大切と言われるのかわかりません。なぜ「これ以上ない短い時間」が大切なのでしょうか。それは仏教が説く「本当の幸せ」はこの一念でなれるからです。

「一念でなれる幸せ」は「全人類がなれる幸せ」

私たちの認識で幸せになれるには時間がかかります。お金による幸せは特にイメージしやすいのではないでしょうか。お金持つことは一種の幸せであることには違いありませんが、お金を稼ぐには多くの時間と労力がいります。これはサラリーマンでも経営者でも同じです。

食べる幸せならお金を稼ぐよりは早くかないますが、それでも時間はかかります。食べたいと思ってすぐに料理が出てくることはないでしょう。

私たちが認識する幸せは、その大小にかかわらず時間がかかります。その上、幸せが大きければ大きいほど時間と労力がかかります。

それ故、私たちの幸せは、例えばあと一秒しか命がない人などはなれないことになります。また、幸せになりたくても寝たきりだったり、精神を病んで何もできない人、認知症の人などはなれないことになります。これらの人にお金を稼いだり、いい人間関係を作る術を教えても、理解できない、理解できても実践する気力もない、そもそも実践できるだけの余命がない、ということになります。

これは言葉だけなら当たり前に思えますが、実は大変なことです。渡下たちにとって、幸せとは「生きる目的」であり、「生きる意味」だからです。

このことに異論を持つ人はいないと思いますが、では上記の人たちに生きる意味がないことになります。幸せが生きる目的であり意味ならば、それになれない上記の人たちはどうなるでしょうか。

もちろん、私は上記の人達に生きる意味がないなんて断じて思いません。ですが、私たちの知っている幸福だけでみれば、理屈の上でそうなってしまいますし、この理屈を覆せる人はいません。

ですが、仏教は本当の意味でこの理屈を覆せます。なぜなら、仏教が教える本当の幸せは「これ以上ない短い時間でなれる幸せ」だからです。ですからあと一秒しか命がない人であっても、仏教の説く本当の幸福になることができるんです。

こう書きますと、「ではその本当の幸福、時間をかけずになれる幸福とは何か?」が問題になりますが、それを説明するのが一念のもう一つの意味です。

一念の二つ目の意味

一念のもう一つの意味は「二心がない心」という意味です。この二心というのは「死んだらどうなるかわからない心」のことです。つまり一念のもう一つの意味は「死んだらどうなるかハッキリした心」という意味です。これは先述の「時間をかけずになれる本当の幸福」の事です。

なぜ、死んだらどうなるかハッキリすることが本当の幸福なのでしょうか。おそらく多くの人が「死後の事より生きてる時のことが大事」と思うでしょう。

でもこう思っている人たちでさえ老後は心配します。老後ではなく10年先、20年先のビジョンを気にかける人も多いと思います。なぜ、気に掛けるかと言えば「未来が現在を決めるから」です。

今どれだけ楽しくても老後は年金ももらえず、働ける体力も就業先もないとわかったら、今を楽しむことなんて到底できません。日常生活でも仕事から帰ってから、今日提出した書類のミスに気づき明日出社すれば十中八九、上司に怒られるとわかったら、今から憂鬱でしょう。

私たちの現在は未来に大きく左右されます。だからみんな安心したい、公開しない未来が欲しいと今現在を頑張るのです。

だったら、なぜ死後を考えないのでしょうか?

10年先はあるかないかわりません。人間は例外なく全員3秒後に心臓が止まる確率を持っています。そうでなくても交通事故、病気、労災、天災、通り魔、無差別殺人、、、死ぬ縁手掛かりはいくらでもありますから、10年後が確実な未来なんて言えません。あるかないかわからない未来です。

ですが、死後は確実な未来です。上記の何かしらの縁で死ねばその時から死後の世界、後生です。死を迎えない人はいませんから「死後」つまり「後生」は確実な未来なんです。その後生がわからないままで、幸せになろうとしても空しくなるだけです。今どれだけ幸せでも死を前にしては、それまでの幸せは役にも立ちません。空しくならない人はそのことに気付いていないだけなんです。

ですが、人間の智慧は後生の事まで及びません。ですからいろんな意見が飛び交います。「好きな人と再会できる」「天国で遺族を見守る」「死んだら無」などなど、色々言わせます。

そういう言葉をなんとか疑うまいと「死んだら無だ」と思い込みますが、いざ他人の死を目にすると「やはり無とは思えない」とぐらつく心が出てきます。いざ、自分に死が突き付けられると「死にたくない死にたくない」と焦ります。死んだら無になると言っていた自分はどこへ行ったのでしょうか。

こういうあっちに行ったりこっちにいったりとぶれまくる心を「二心」といいます。先述の「死んだらどうなるかわからない心」の事です。専門用語で無明の闇と言います。(文字数の都合で以後「無明の闇」と書きます)

この無明の闇がなくなった心を「一心」と表現することがあります。「死んだら極楽浄土に行けるとハッキリした心」ということです。死んだら浄土とハッキリして、死を突き付けられてもブレず一つに定まるので「一心」といいます。

これ一念のもう一つの意味です。

一念を知らなければ助からない

この一念は最初に書いたように「肝要」でありこれ一つ大事な言葉です。この一念を知らなければ、そもそも仏教の救いにあうことができないという大切な言葉です。

ですが、昨今はこの一念を教える人がいません。残念なことです。これには歴史的背景もあるんですが、長くなるので割愛します。

とにもかくにも、仏教でもっとも大事な言葉である以上、その意味をしっかり知ってほしいと思います。私も少しでも、欠片程度でも知ってらえたらと、こんな文章を書いています。

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