それで本当に人生満足か? 〜思い出で未来は明るくならない〜

よく「死ぬまでに何をしたいか」ですとか、「どんな死に方をしたいか」といった質問を見かけます。自身の人生どうしたいか、という質問の派生のように思えます。この質問にはいろんな回答が寄せられますが、答えは二種類に大別できるように思えます。

一つは、「自分のやりたいことをする」
二つは、「後世に何かを残す」

死ぬまでに自分のやりたいことをやり抜くといった答えは一番よく見かけます。それと同じくらいに見かけるのが「自分はこんなふうに生きたんだ」と誇れるようなものです。

前者の場合、夢リストとか死ぬまでにやることリストをつけていたりします。後者ですと、今まで出会った友人知人たちの写真で部屋をいっぱいにする、ですとか、変わったものだと、自分が生涯稼いだ金額を現金で、葬儀会場に置くというものまでありました。人生観については十人十色のようです。

ですが、「自分のやりたいことをした」「自分はこれだけのことをした」という事実はあくまで過去のことであり、一種の「思い出」です。この過去の思い出で本当に人は満足できるのでしょうか。

先述の人たちも目的は「本当の意味で満足すること」でしょう。そのためにやりたいことをやったり、後世に残すものを考えるのですが、本当にそれで満足できるのでしょうか。

今回は「思い出や過去の事実で人は満足できるのか」ということについて書いていきたいと思います。

今を明るくするのは未来

結論から言いますと、思い出や過去の功績で満足はできません。「こんなに楽しいことをしてきた」ですとか「こんなにたくさんの金を稼いだ」という事実で満足はできないんです。これは楽しさの質とか、お金に執着してるからとかそういうことではありません。

お金を稼ぐことは、それが悪いことで稼いでない限りは、社会に貢献した対価をもらうことです。なので稼いだお金が多ければ多いほど、社会に貢献し、社会をよくしてきたということです。また、楽しいことも自分一人楽しいのではなく、周囲も一緒に楽しくできれば、自分が楽しい分、社会のみんなも楽しくなっているのですから、素晴らしいことです。

ですが、これらでは人は満足できないんです。なぜなら、これはあくまで過去の事実でしかないからです。

もし、多大な社会貢献をして、大量のお金を対価として稼いで、更に社会の多くの人を楽しくさせた、そんな人であっても、余命宣告されたらどうでしょうか。末期癌でもう手が施せない、後は死を待つだけ、こう言われたときにこれまでの社会貢献がどれだけの役に立つでしょうか。

「これまでこれだけ貢献してきたんだから、もう悔いなく死ねる」なんて素直に思うでしょうか。「これから死んでいく先」が全くわからないのに、これから死んでいく先に、これまでの社会貢献の実績も、稼いだお金も何も持っていけないのに

この世のどんな功績も死んでいく先に役に立たない、そしてその死んでいく先が全人類の100%確実な未来なんです。

過去の功績で未来明るくなる訳が無い

誤解がないように書きますと社会貢献や人を楽しませることが無意味と言っているのではありません。それはとても良いことです。ですが、それは「生きている間」は役に立ちますが、「死んでいく先」には一ミリも役に立たないんです。これは例えるなら、学校でどれだけ成績が良くても、その成績は卒業して社会に出ると、過去の事実や思い出でしかなく、何の役にも立たなくなるのと同じです。社会に出てから「昔はこれだけ成績が良かった」と誇っても「そうなんだ、、、」としか言われません。

それと同じく、いざ死んでいくときには、これまで楽しかったことも、築いた功績も何の役にも立ちません。生きてる間なら、過去の功績を慕って人が集まり、時に困ったときは助けてくれる人もいるかもしれません。ですが、死を目の前にしては万金を積んでも死を逃れることはできませんし、周囲に集まる人も死に抗える人はいないのですから、何もできません。

では、その状況で死んだらどうなるのか、死後があるのかないなの、あってもどんなところなのか、今よりよくなるのか悪くなるのか、さっぱりわかりません。

死後の世界は100%確実なのに、こんな真っ暗な世界なんです。私たちはどれだけ良い生き方に努めても、最後死んでいくしかありません。その死んでいく先もわからないんです。こんな悲劇はありません。

この悲劇を抱えた状態では、過去の功績も楽しさも、一切役には立たないんです。

絶対の未来こそ、明るくしなければならない

私たちが「今を生きる」ことはとても大切なことです。社会貢献も、人と楽しむこともなくてはならないことです。ですが、それだけだと大変に大きなものが抜け落ちているんです。それは確実な未来、死後です。

この死後を明るくし、この世から本当に幸せに生きられる道を教えたのが仏教です。

仏教でこんな言葉が教えられています。

「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因をみよ。」

因とか果と言っているのは原因と結果のことです。過去にどんな原因があったのかと知りたいなら、今の結果をみなさい。現在の結果は過去の原因が生み出したものです。

そして、未来の結果を知りたければ、現在の原因をみなさい。未来の結果は現在の原因が生み出します。

この原因とは「自分の行い」のことです。この行いは「心で思う、口で言う、体で行う」の3つです。これら三つの行いが自分の未来の結果を生み出します。これは死後も例外ではありません。今生きていった結果が死後なので、死後の結果を生む原因は今にあるんです。つまり今生きている時の行いです。

この事実を根幹として、仏教は死を前にしても崩れない幸福を説いています。

自分の行いが自分の結果を、と言えば当たり前のように聞こえますが、実はそう簡単なことではありません。突然上司に怒られても「自分の行いが原因だもんなぁ」と素直に思えるでしょうか。ものすごく理不尽に怒られているならまだしも、実際自分に非があると分かっていても素直に思えないことの方が多いです。これこそ、自分の行いが結果を生むことをわかってない証拠です。

ですから、仏教では他宗教で聞くような以下のことは言われません
・信じることが大事、どこまで信じられるかが問題
・信じれば救われる
・儀式や祈り方が大事
・〜を買えば助かる

最後のは論外ですが、信じろとか祈れと言いません。「教えを聞くこと」が大事と教えます。聞かなかったら何もわからないからです。そもそも死ぬことを葬儀とか遺産相続とか、死後に残る功績とか、こういう風にしか考えられないのが人間なので、教えをちゃんと聞かないと、人生の実態も分からず、幸せとは何かもわからないまま話が進まなんです。

だから、聞くことが大事なんです。信じる信じない以前の問題だからこそ、「聞くことが大事」なんです。仏教の言葉では「仏教は聴聞に極まる」と言われます。

聴聞とは仏教の教えを聞くことです。

「教えを聞く」と言われるだけでは頼りなく思えるかもしれませんが、水滴が石に弛まず落ち続ければ、いずれ石に穴を開けるように、仏教の教えをわからない長良に聴き続ければ、必ず知らされる時がきます。それまで真剣に聞きなさいと教えるのが本当の仏教です。

世間の仏教の見方は明らかに間違ったものが多く、迷走しかしていないところがあります。

仏教についても、世間でいう幸せについても、今一度深く見直して行きたい、そういうきっかけになればと深く念じつつ、こんな文章を書いています。もしよければこれからも読んでいただけたら幸いです。

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