生きづらさの枝葉と根源

昨今「生きづらさ」という言葉が多く聞かれます。種々の社会問題の原因の一つとしても知られていますし、現に生きづらさを感じている人は多いようです。

この生きづらさの原因は多く語られます。ハラスメントや虐待、DV、いじめなどの人間関係によるもの。生活費や物価高、雇用や収入などの経済によるもの。疾患、障害、介護やそれに伴う通院や医療費といった健康に関するもの。ほかにも社会的な地位名誉によるものもあるでしょうし、出世競争などの社会的な競争も生きづらさを生むことがあります。

仏教の観点からもこの生きづらさは論ずることができます。そして、仏教の観点から見ますと、「生きづらさの原因」には「根本的な原因」と「枝葉にあたる原因」があります。

今回はこれらを解説します。


枝葉の原因

まずは枝葉の原因からです。当然ですが枝葉ですから根源ではありません。ですが、非常に重要なものであり無視して言いことはありません。

例えば火事でいえば根源は火の元で、そこから被害を拡大させているのは火の粉です。この場合火事を解決、つまり鎮火するには火の元に徹底的な消火活動を行うことが重要ですが、かといって火の粉を放っておけば延焼してしまいます。根源へのアプローチが第一ではありますが、枝葉も無視してはいけません。

そして、生きづらさにおいて何が枝葉の原因かと言いますと、先述の人間関係、経済、健康、地位、名誉、競争などによる生きづらさです。

世間ではこれらが根源のように語られますが、仏教の観点から言いますとこれらは火事における火の粉や二次被害などの枝葉の原因なのです。

といっても先に書いた通り、これらへのアプローチは重要であり、力を注ぐべきことです。ですが、これらだけに力を注いで根源へのアプローチを怠れば、負のスパイラルに陥ることは明々白々であり自明の理です。

そしてこれらが枝葉なら、根源はなんなのでしょうか。それをこれから解説します。

根本の原因は「死んだらどうなるかわからないこと」

仏教が教える生きづらさの根本的な原因とは、すなわち「死んだらどうなるかわからないこと」です。ここの「死んだらどうなるか」については誤解が多いので先に解説します。

これを聞いてよく出てくる誤解に「遺産相続」があります。これは間違いです。また「残される家族がどうなるか」と考える人もいますがこれも間違いです。更に「死んだあと、自分の周囲(家族や会社、人間関係や社会など)がどうなるか」と思う人もいますがこれも間違いです。

「死んだらどうなるか」とは「あなた自身が死んでどこへいくのか」ということです。つまりは来世とか死後の世界と言われるものです。

なぜこれが根本原因かといいますと、死は私たちの確実な未来だからです。

世間では経済とか人間関係とかいろいろな悩みを抱えて、それの解決にむけた行動をとります。それは「将来の不安に備える」ためです。「自分は今を生きている」と豪語している人だって、その実将来マイナスに働くであろう事はしていません。

その将来の中で万人共通で確実なものが「死」なのです。死と聞くと縁起が悪いとか不吉、ネガティブだと嫌う人が多いですが、じゃあ死なない人はいるでしょうか。

みんな必ず死んでいきます。では、その死んだ先はどうなっているのでしょうか。死んだら無だよと言い張る人が良くいますが、その人たちがなにより信用する科学は死後の世界を否定していません。見識ある科学者の見解は「死後があるかどうかわからない」または「死後があると考えた方が合理的」という考えを示しています。あるとは断言していませんが、無いと断言できていません。

また、あるとしてもどんな世界なのか。「死んで最愛の人と再会できる」と豪語する人が良くいますが、最愛の人と再会して、最悪の人と中立の人は不問にしているのは何とも都合のいい話です。「神の国に召される」とか「死後、神が自分を復活させる」という見解も見たことがあります。では、神ってなんでしょうか?神が復活させるってどういう事でしょうか?このあたりもあいまいです。

色々あげましたが、つまるところ人間は死んだらどうなるかがわかりません。これはもう誰も反論できません。証拠は誰しもが「わからない」と答えるか「おそらく~だろう」という推論しか言えない事です。

この確実な未来がわからないまま生きているというのは着陸地点も、着陸できるかどうかわからない飛行機に乗っているようなものです。海の真ん中を飛んでいる飛行機の中で、その飛行機が着陸地点も、無事着陸できるかもわからなくなったら、もう機内中パニックでしょう。そのパニックはエコノミークラス症候群からくるものでもなければ、機内に映画とか音楽といった娯楽がないからでもなければ、となりの客が不快だからでもありません。

着陸という飛行機にとって確実な未来が全く分からないからパニックが起こるのです。

ならば人生も確実な未来が死なのですから「死んだらどうなるか」は飛行機の着陸以上に重要なことなのですから、大問題でないわけがありません。

この大問題こそが、実は生きづらさの根源なのです。

根源の原因がもたらす影響

この確実な未来がわからない状態で「明るく生きよう」なんて土台無理な話です。不時着を余儀なくされた飛行機の機内で機内食や娯楽を楽しむ人はいないように、確実な未来がわからない人生で心の底から明るく楽しく生きることはできません。

なんらかの娯楽や趣味生きがいをもっても、なにか空しさを感じます。それを埋め合わせようとさらに生きがいや趣味を追求します。ですが、人間いつまでも追及できません。衰えもしますし、生き別れもあれば死に別れることもあります。社会形態や人間関係の中に生きがいを見出しても、現代で特定の社会形態は10年続かないことも多いですし、人間関係なら5年もすればなくなるまで行かなくても変化はします。

そうすればどんどん空しさは募ります。その空しさを埋めようと苦労します。しかし、空しさを埋める術が一つまた一つとなくなっていけば、どうなるでしょう。

人間、生きがいが失われると「その人の生きていく理由」を喪失してしまいます。それがきっかけで、なんらかの良くない行為に走ることだってありえます。昨今薬の過剰摂取が問題になってますが、その根底にもこの原因があると言えます。

死んだらどうなるかわからないことは、つまり「生きる目的がわからないこと」なんです。卒業後どうなるか、どうなりたいかもわからずに進学や学校生活の目的を見いだせないように、死という未来がわからないのに人生の目的は見出せません。世間で人生の目的と言われる生きがいなどは、大切なものですが、あくまで人生の目標であり、目的ではないのです。

根本原因の解決を教えるのが仏教

仏教が教えていることは葬式でも葬儀でもお祓いでも祈祷でもありません。この生きづらさの原因の解決です。

仏教は根本原因へアプローチするためにまず枝葉の原因にアプローチします。なぜかと言いますと「死んだらどうなるかわからないこと」が原因と話してすぐわかる人はいないからです。

この記事に関しては私の文書力の問題が大きいですが、この説明に中々の文字数費やしてしまいました。

ですが、枝葉の原因は理解しやすいところです。人間関係の煩わしさはよくよくみていくと人間の欲や怒り、嫉みがきっかけになっています。

経済の煩わしさも財欲や利益欲といった欲が加速させていると言えないでしょうか。

ここでは深掘りは避けますが、煩悩は生きづらさの一つの原因であり、また理解しやすい側面でもあります。仏教はその理解しやすいところから生きづらさの原因と対策を教え、そこから根本原因の解決へと向かうように教えられています。

ですから仏教の教えを聞くことは、生きづらさの解決に繋がります。だから仏教は「聴聞に極まる」と教えられます。真剣に教えを聞くことが大切ということです。

昨今らこのことを教える人が少なくなりました。仏教といえば葬儀だの墓参りだの、ひどい場合は加持祈祷、お祓い、スピリチュアルにつなげる輩までいます。

仏教は誰から聞いても同じではありません。正しく教える人から聞かないといけません。この記事が誰かが仏教に関心を持つきっかけとなり、正しく仏教教える人と出会う縁となって欲しいとおもってなりません。

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