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『積読こそが完全な読書術である』のメモ#3

現代は、世界がすでに1つの積読環境を形成し、それはどんどんど巨大化し、中にいる私達は情報の濁流の只中にいる(p17, p26)。そして、その積読環境の中で、情報はどんどんと積み上げられ、自分が摂取するその場から情報は既に更新され、気がつけば取り残されている(p20)。

(この本から少し話題が逸れるが)そうした中で、現在私達は、あまりにも、その場でしがみつくことができる”答え”に振り回されていないだろうか。もちろん、中には適切な答えや正しいと考えられているものはあるだろう。しかし、答えにたどり着ければいいのだろうか。それを”知っていること”だけが重要なのだろうか。

そもそも、”答え”とは何なのだろうか。このような問いは、情報の濁流の中ではもはや考える余裕はないのかもしれない。そうした中で、自分が信じたい、あるいは、信じている”答え”にしがみつく。一方で、情報の濁流の中から助け出してくれるはずの検索や推薦は私達に”答え”を投げてくれるが、それにしがみついた途端、濁流の中から浮かばせてくれるどころか、さらに奥底まで沈んでいくことがある(厄介なのは、しがみついている本人はそのことに気づかない)。

このような中で、積読はそのような状況に抗う1つの方法なのかもしれないと読んでいて思うようになった。

もちろん、目の前にある本を求められるまま手に取り、無批判に読み続ければ、結局は情報の濁流に飲まれてしまうし、積むだけに執着していたら、それは何にも役に立たないだろう。それに、既に世界自体が積読環境になっている。

だが、ここで重要なのは、だからといって、読むべき本やこれを読めばいいという本があるのか、探すための最適な方法などあるのかということである(もちろん、読むべき古典などはあると思うが)。情報の濁流の度合いが弱かった昔ならできたかもしれない、でも、今、世界自体が混沌とした積読環境である中で、それは出来るのだろうか。また、私が読むべき本とは何だろうか。これには答えなどあるのだろうか。もはや答えは無数に存在していて、そもそも、その時に答えだったものが、本を閉じた時にも答えであることを保証することも難しくなっているのではないだろうか。

だからこそ、大切なのは、されるがままに濁流に飲まれるのでもなく、全てをシャットアウトしたり、ある”答え”のみにしがみつくのでもなく、私達を飲み込もうとしている世界規模の積読環境という大きなカオスに抗うための私を表す小さなカオスをつくることではないだろうか(p67)。そして、その小さなカオスをつくる一つの方法が、ここでの積読、つまり、ビオトープ的積読環境(自律的積読環境)の構築なのである。

では、このビオトープ的積読環境の構築は、単に本を積むだけと何が違うのだろうか。それは、ビオトープと名にあるように、ここでできた積読の山は、単に読まれることを待っている本の山ではなく、生態系であり、周囲を取り巻く大きなカオス(※1)から(あるいは、それに飲み込まれつつある自分自身から)、この環境を守る(殺さないようにする)必要がある。

そのための方法として、本文中では、テーマを決めて積んでいくことを挙げている。これによって、まずは自分が管理していきたい積読環境の土台ができる。もし、自分がいま何をテーマにしているのかを把握できなくなれば、それは、積読を管理できなくなっているということである。そして、テーマを決めて積んでいったら、そのテーマを適宜、新しく設定しなおして、その過程で積んできた本を振り返り、蔵書の取捨選択をすることで、そのテーマが鍛えられ、環境自体も息づいていくとしている(p124)。

これをもう少し考えてみると、自分を表す小さなカオスをいかに表現するかなのではないかと思う。単に興味のままに積んでいってしまえば、いつかは小さなカオス自体が大きなカオスとなるか、あるいは、積んでいったものの収拾がつかず、周囲にある大きなカオスに溶け込んでいってしまう。だからこそ、自分を表すものとしてテーマを決め、それを積読環境の土台とする。そして、それを見失わないようにケアしていくことで、それはあなた自身を表すものとして強くなっていき、周囲の大きなカオスに抗うための力となる。

もうこの時点で、積んであるものが未読か既読かは関係ない。なぜなら、その積読環境自体が、あなた自身を表すものになっているからである。そして、これは自分自身を表すものでもあるが、同時に小さなカオスである。これは、自分を縛るものではなく、自分と同じく変わりゆくものであり、”答え”を与えるのではなく、自分に溶け込み、答えを求め続ける思考の一部となっていくのではないかと考える。





※1 

「いつか誰かに読まれたい」という書物の「期待」は、積読をしているあいだは保留され続けるのです。保留されているあいだ、紐解かれていない書物のなかの情報は、無意味でもなければ、意味を特定された状態でもありません。特定されていない意味のカオスこそ、積読の正体です。(p67)


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