本について思うこと、その雑記 #2

現在、『図書館 愛書家の楽園』アルベルト・マンゲル 著, 野中邦子 訳, 白水社, 新装版を読んでいて、『〈インターネット〉の次にくるもの』ケヴィン・ケリー 著, 服部桂訳,  NHK出版との繋がりを思いついたので、そのことについて記しておく。

アルベルト・マンゲルは『図書館 愛書家の楽園』の中で、

幾夜か、私はまったく無名の図書館を夢想する。そこにある本にはタイトルがなく、著者名もなく、次から次へと流れるように物語が続き、それはあらゆるジャンル、あらゆるスタイル、あらゆるストーリーを含み、すべての登場人物とすべての舞台は名前をもたず、その大河の流れのどこからでも、実を浸すことができる。そんな図書館では、『城』の主人公が聖杯を求めて『白鯨』のピークォド号に乗り組み、無人島に上陸して、難破した船のかけらから村を築きあげ、百年目にして初めて氷山と遭遇したことを語り、子供のころに早寝させられた恨みを胸が痛むほどの切実さで回想する。そんな図書館には、数千の巻数に分かれた一冊の本しかないだろう。そして、カリマコスとデューイにはたいへん申し訳ないが、そこに目録はない。(同書 p.63 「秩序としての図書館」)

と書いている。

ここで描かれている無名の図書館、そして、そこにある数千の巻数に分かれた一冊の本という表現に、ケヴィン・ケリーが『〈インターネット〉の次にくるもの』において、思い描いていた(将来の)電子書籍、そして、「画面を読む(スクリーニング)」という概念に繋がるものを感じ、また、このような私達の”夢想”を表現することのできる電子書籍があれば、とても面白いのではないかと思った。

ケヴィン・ケリーが同書において言うように、今後は、自身が読みたいと思ったもの、さらに言えば、自身が読みたいと思った”部分”だけを読むということが当たり前になるのかもしれない。音楽がデータ配信の普及によって、アルバムという形から、トラック毎にきく、さらに言えば、ジャンルや歌手などを問わず、様々なものがリミックスされた状態で聞くことが当たり前になったように、本というものも一冊という形態にとらわれない読み方が可能になるのかもしれない。確かに、専門書などでは必要なデータや項目などのところだけを読むということもあるが、今後は、私が好きな本をいつでもどこでも取り出し、さらに言えば、こういうものが読みたいと思えば、特定の1冊には留まらず、本のトラックとでも言うべきものが現れるということにもなるのかもしれない。

そして、これまでの本の形態の縛りとは無縁の電子書籍が生まれた時、私たちは、それらを使って、考えたり、新たな知識を得るだけでなく、”夢想”するということも当たり前にするようになるかもしれない。これまでに読んだ本でもいいし、検索サービスやレコメンドサービスなどに頼んで、自身の好きな”パーツ”とでも言えるようなものを集めていく、そして、アルベルト・マンゲルが思い描いたように、そこに現れる主人公や舞台さえも自由自在に操り、表現できるようになるかもしれない。色々な本の箇所を集めて思想にふける、何かを創造するというのは書物でも行われてきたことだが、ここで、電子書籍の更なる強みと言えるのが、それが私達の脳内で表現されるだけでなく、イメージとしても表現できるということである。これまでは、脳内で編集し、表現したとしても、その場で何か実体として残さなければ、そのまま消えていくものであった。しかし、電子書籍上で、パーツを集め、それらを編集し、そこに描き出すことさえも出来るようになったとき、私達は本というものを読みながら本というものを生み出していくという、その過程を新たな”読書”というようになるのかもしれない。

このように、電子書籍は、その元となった書物(紙の本)という殻を破り、私達の夢想を描き出し、そのもの自体が読者自身によって拡張され、あるいは新たなものへと変化していく新たな本になるのかもしれない。さらに言えば、ここで表現された夢想は、電子書籍だけで見ることができるだけではなく、様々なデバイスに共有し、そして、様々な人々が閲覧、利用できるようになっていくのかもしれない。

一方で、書物は、それ自体が世界を作りだし(といっても、実際にその世界を創り上げるのは、著者や編集者、装丁家などである)、私達をその世界へと誘う”もの”としてあり続けるのではないか。しかしながら、電子書籍のイメージと違うところがあるとすれば、書物のもつ世界はあくまでも読み手となる私達とその書物の相互作用(手に持つ、表紙をなでる、ページを捲る、折り目をつくる、書き込むなど)がなければ浮かび上がることもなく、その世界は読み手一人一人異なるものであるということにある。書物と読み手(私達)が、言わば一体となるとき、通常考えられるような静的なものには留まらない魅力を生み出す。

なんとなく最後はまとまらない感じにもなってしまったが、以上の様に、書物と電子書籍は、それぞれが本として、それぞれの意味と役割を持ちつつ共存していくことができるのではないかと思う。ただ、どちらの”本”にしても、それらが強く望んでいるものは私達”読者”であって、そこを置き去りにしては共存もなにもない。また、その読者も本同様に多様であるということも忘れてはならないのではないか。

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