『積読こそが完全な読書術である』のメモ#2

大音量でさまざまな楽曲がなりひびき、どれがどれなのかわからない状態。ただ耳をつんざく轟音がその場の全体に反響し飽和している状態。それが情報の濁流のイメージです。そこに心地よいBGMを流せる空間を作ること、それが自律的積読環境=ビオトープ的積読環境を構築するということです。同じBGMばかり聴いていては飽きてしまうでしょうから、適当なプレイリストを作り、それも適宜更新していく、そんなイメージです。                                            (p.165)

過度なパーソナライゼーションは面白みを無くしてしまうし、考えを固めてしまうこともある。一方で、なんでもかんでも手を出せる状態、あるいは無秩序に目や耳に入る状態であれば、自分を見失い、何も見たくなくなることもあるかもしれない。つまり、情報が溢れかえり、コントロールすることは難しい今、パーソナライゼーションなしでは自分を保てない。

そのような中で、ビオトープ的積読環境は、データ至上主義の過度なパーソナライゼーションでもなく、人間至上主義の何にも頼らないで濁流に身を任せる(投げる?)のでもない、適度なパーソナライゼーションを実現する1つの方法なのかもしれないと思った。

この本を読めばわかるように、著者が「本を(完全に)読める」という立場と「本は読めない(そもそも読むことはできない)」という立場、どちらの意見(さらにそれはどちらも積読へと繋がっている)も踏まえているから、何かしっくりくるところがあるのかもしれない。


永田希(2020)『積読こそが完全な読書術である』, イーストプレス


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?