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スピノザ的「善」と「悪」が面白い!

今回もスピノザ『エチカ』より「善」と「悪」の概念について紹介をしたい。

まず始めに、自然状態において世間一般で用いられる善と悪という概念は存在しません。

これは少し考えれば分かることだと思います。

自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しないとスピノザは言います。

はい、その通りです。スピノザ様。

しかし

「は? 善悪なんてあるわけないじゃん。」

では身も蓋もありません。

『エチカ』倫理です。僕たちが善く生きるためにはどうするべきか、ということを示さなければなりません。

その意味でスピノザは「善」と「悪」という概念を保存します。

続けて興味深い一節を引用します。

善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、非傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。

『エチカ』第四部序言

自然界には善い悪いも存在しない、それは「比較」によってもたらされると述べています。

これは前にも書いた、完全/不完全の区別は存在しない、ということと同じ考え方です。

では自然界には存在しない善悪の考えが僕たちにもたらされるのはどのようにしてか?

面白いのが引用の後半部で、スピノザは組み合わせとしての善悪という考え方を提案します。

例としてあげられているのは音楽です。

例えば「憂鬱な人」にとって音楽は力が湧いてくるものとなります。よってその人にとって音楽はとなります。

「非傷の人」(例えば亡き人を悼んでいる状態の人)にとって音楽は邪魔であるかもしれません。その意味でその人にとって音楽はとなります。

「聾者」(耳が不自由な人)には音楽は善くも悪くもありません

つまり、自然界にはそれ自体として善悪はないけど、うまく組み合わさるものとそうではないものが存在する。
それが善悪の起源だとスピノザは考えるわけです。


トリカブト(鳥兜・草鳥頭、学名:Aconitum)


スピノザはもう一つ例をあげています。

トリカブトという毒をもった植物。トリカブトが人間の中に入ると、何らかの仕方で身体組織を破壊しますが、それはトリカブトと人間の組み合わせが悪いということを示しているにすぎません。トリカブト自体は自然界に完全な植物としてただ存在しているだけです。トリカブト自体は悪くない。
人間とうまく組み合わさることができないだけなのです。


そしてこれは僕たちの間で日々おこる、人間関係にも当てはまると思います。生きていて色々な人に出会うと、どうしても合わない人、何かわからないけど嫌な感じを受けてしまう人などが絶対にあらわれます。これはスピノザ的に言うならば、

組み合わせが悪いからです。

その人自身が悪いのではなく、
私とその人という組み合わせが悪いのです。


スピノザはこう言います。

我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを、言いかえれば我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。

『エチカ』第四部定理八証明

自分にとって善いものというのは、自分とうまく組み合わさって「コナトゥス」(活動能力)を増大させるものです。そして前回も少し触れましたが「より小なる完全性から、より大なる完全性」へと変状させてくれるものです。

人間関係においても、そういう人と常に繋がっていたい、と僕は思います。


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〈参考テキスト〉

『エチカ』- スピノザ
『スピノザ-読む人の肖像』- 國分 功一郎
『はじめてのスピノザ』- 國分 功一郎
『100分de名著– エチカ』- 國分 功一郎
『スピノザの世界』- 上野 修

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