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「〇〇だから出来ない」おじさん対策と自分がそうならない方法

 私が日本で働いている時に頻繁に出会った存在が「〇〇だから出来ない」おじさんだ。誰かが新しい事に挑戦しようとしているのに「やめておきなさい」とか「〇〇だから無理」とか「弊社は特殊なので無理」とかともかく出来ない理由を探すことにかけて天下一品の人の事だ。

 私は今アメリカのクラウドプラットフォームの開発者としてアメリカのレッドモンドというところで勤務しているのだが、ふと気づいたのが、日本であれだけ頻繁に見かけた「〇〇だから出来ない」おじさんに出会ったことが無い事に気づいたのだ。「そういえば全然いないぞ!」と。

 今回はなぜ今の職場環境だとそういう人に出会わないかということを周りの人を観察して、考えてみて、少なくとも自分がそういう風にならない方法を考えてみた。

先日ふとX (旧Twitter) を見ていると、高齢からでもプログラマ挑戦できるはずがない。証拠をあげてみろ!という人がいて今の職についたのが48歳の自分からすると、ちょっとカッとなって返信してしまった。

大人げなかったごめん

意見は人それぞれやから、別に何を思っても発言してもええと思うねんな。ただ、いつもこういうことに出会うと思うのは「あんたがそう思うのは勝手やけど、わしも出来へんことにせんといてくれ」と思ってしまう。

「〇〇だから無理」の背景

私は若い頃から、新しいソフトウェアの開発手法を導入する仕事についていたので、沢山の反対にあってきた。「大規模だから無理」「大企業だと無理」「日本では無理」「牛尾さんだから出来るんでしょ?」ここら辺の経緯はこの前書いたブログにも紹介した。

これは自分の単なる意見だが、そういう人がそういう背景としてはきっと「自分はやりたくない」のだと思う。別にいいと思う。人が言ってることなどやりたくないだろう。意見は自分のものだし、そう思うのは何も問題ではないと思う。
 だから「申し訳ないけど、自分はやりたくないんだ。」と言えば別に良いと思うのだが、そういう人には出会わなかった。かならず自分以外の何物かの問題でしぶしぶ出来ないのだというムードを醸し出していた。その問題の解決案を提示すると決まって次の「出来ない理由」を探してくる。そらそうだ。元はやりたくないのだから。

 漫画「推しの子」の最近の話ではないが、自分がやりたくないだけなのに、何かとても大きな問題でできない雰囲気を漂わせるのはとってもダサいと思う。うん。ダサい。
 私はこういう人のことを「はげちゃびん」と呼んでいる。物理的に髪の毛があるかどうかの問題ではなく、心意気の問題だ。

なぜアメリカの職場で見かけないのだろう?

きっかけは自分の書籍にかける思いを書いて欲しいと編集者さんに言われたので、自分の人生を振り返ってみたことにある。そんな時に「あー沢山やらない理由探してくる人に出会ったなぁ」と思い出したのだが、「あれ、こっちに来てから一人も出会って無くない?」と気が付いた。

文化が違う?

最初に思ったのは文化の違いだ。下記のブログに自分が初めてアメリカに引っ越しした時に、めっちゃ重くてデカいヴォーカルブースを買った時だ。Fedexに「フォークリフト持ってるか?」と言われて唖然として、コンテナで置かれたそれをどうやって家に運ぶか悩んでいた時も、通りかかる人が誰も「あきらめた方がええんちゃう」とは言わなかった。まわりの人が全員が全員「きっとできるよ!がんばって」と言ってくれて衝撃を受けた。これにはとても心が救われた。

自分ですら「無理」と思うようなことが現実に

 私は日本だったら、相当な新しい事を導入するのが好きな異端な感じだったけど、こちらでは私は異端でもなんでもなく、むしろ保守的な方なぐらいだ。
 もう今は実際に製品になってるから普通かもしれないが、「Azure Functions を Azureはもちろんのこと、オンプレ、GCP、AWSのすべてで動作させるのをまるで Azure の上で動かしてるぐらいの快適さで運用できる。まぁ今はマルチクラウドの時代やからな。」というコンセプトを最初に聞いた時、「えぇホンマに出来んのそれ?」と私の方がびっくりした。

 ところが蓋を開けてみると、そら完璧じゃないかもしれないけど、本当にそれのかなりの部分を実現して、サティアナデラが//buildのキーノートでそれをバーンを発表して、それにかかわった自分もとても誇らしい気分だった。
 私ですら「えーーそんなん出来るん?」と思うよなアイデアであっても当時も誰も「そら無理やろ」とかネガティブな意見は聞かれず、みんなで「どうやったら出来るか」を一生懸命話し合っていた。そして実現していった。アメリカから沢山イノベーションが出てくるのってこういう背景が多分にある気がする。ごめん、わしが「はげちゃびん」やったわ。と思って心を入れ替えた。

反対したい場合はどうしたらいいのだろう?

もちろんだからと言って、それが本当に出来ないとか、他に良い方法があるなどの理由で、反対の意見を述べたいときもあるだろう。もちろん私の職場ではそういうケースも躊躇しないが、「自分の意見では」という枕詞が常についているノリで「誰かが間違っている」というノリではなさないので、人格攻撃的になる事は無く、みんな楽しく純粋に技術のディスカッションをしている。

 先日、今作っている新しい機能について、自分が「こんな機能あったらええんちゃうか」的な事を提案した。Paulが自分に、「これはどういう目的で、これを実装したら、Pros/Consはどうなるの?」と聞いてきたので、それを簡潔にシェアすると、なんとPaulは一瞬で自分の目的を完璧に達成したうえで、私が考えたアーキテクチャよりずっとシンプルで簡単に達成する方法を提案してきた。マジあんた凄すぎやろ!
 自分は「そのアイデア最高!それで行こう!」と同意した。反対するときはPaulみたいに出来たら最高にカッコいいだろう。
 では、Paulはどう考えてそういう風に至ったのだろう?

Paulの思考回路

早速翌日、どういう風にPaulはそれに思い至ったのか知りたくて本人に聞いてみた。彼によると

・ゴールを確認する。
・該当のアーキテクチャの事を思い出して、ゴールを達成するシンプルな方法を考える

一件普通に見えるが、私が面白いなと思ったのは、まずゼロベースで考えているところだ。私のアイデアが書いてあるのだから、私だったらそれに引っ張られる。でも彼はゼロベースで考えているから、私が複雑に考えていた「バイアス」に取り込まれなかったのだろう。

 またこのPaulの例のように「相手が達成したいことをより簡単に実現できるアイデア」を提示してくれるなら、アイデアを出した人もめっちゃうれしいはずでこれこそチームの力なので気持ちもよかったしうれしかった。

まとめ

 横道にそれてしまったが、今回のブログの趣旨に合わせて考えると、彼は自分の頭を使ってより良い代替え案を考えてくれた。自分は何もせずに反対するときと違って、反対された側の納得感と、感謝の気分は全然ちがうものだろう。まとめると

・反対の意見をいう時は「自分の意見としては」を明確にし、相手の意見も尊重する
・反対するのであれば、自分でしっかり考えて相手のゴールを達成できるような対案を出す。
・やりたくないのであれば、素直にそういおう。もしくは、自分にエナジーがたりないとか、そこにそこまで情熱もってないとかなんでも素晴らしい理由だと思う。ただ、相手が頑張ってることをじゃましないようにしよう。
・「一見無理じゃない?」と思えることでも「どうやったら出来るか?」を一生懸命考えて実践したら、イノベーションが待ってるかも。
・反対意見を述べるときは、相手の意見は「間違ってる」とみなさず尊重して、「自分の意見では…と思いますわ」という言い方をすると楽しくディスカッションができる。

自分も気を抜いたらいつでも「はげちゃびん」になってしまうから、自分の「無理」を「出来る」に出来るようなカッコいい人になれるようになれたらいいな。そんで自分が「無理」と思えることにチャレンジしている人を応援してあげられるような人になりたいな!

最近本を出して ありがたくもAmazonでもベストセラーになってるみたいなので、よかったらエンジョイしてね!



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