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処を得る

 今は自分は職場と家庭で確固たる役回りは与えられており、社会的地位は安定しているように見えます。でも、そこに存在することが許されているのは、求めに応じて役務を提供する「役回り」を担っている間であり、役回りを下ろして一人の人間になり、未来に思索を深めるために、自分の世界に没入できる空間を持っているわけではありません。役回りが終わればそこには居られない、という暗黙のルールがあります。
 もちろん、ホテルに宿泊したときのように、チェックインの時間になれば強制的に追い出されるような、明確な区切りがあるわけではないのですが、役回りが終わったら、とたんに居場所がなくなることになります。役回りが続く限り、自分がそこにいることが許される、これがなるほど、家に居られない父親が、いつまでも職場に居られるよう、無理にでも自分の役回りをつくって、そこにいることの正当性を誇示する、そして人を付き合わせることになるのだなと思いました。
 僕は、目の前の仕事でしか自分の存在価値を見出せないあまり、過剰品質にこだわり生産性の低い作業に時間を費やすことは、人生の浪費だとしか思っていません。また、感染症拡大前に、閉じられた世界で階段を上がるため、あるいは、人間関係の円滑にするために、仕事が終わってからの夜の時間を飲みに費やすことも、自分の生活バランスを崩し、貴重な時間を奪われるものとしか今は捉えていませんので、できればこのままそうした時間に奪われる生活には戻りたくないのが本音です。
 やはり、自分は垂直離着陸により、別な世界に居場所を求めるしかないんですよね。それは職場内にあるのかもしれないけれど、まずは外に出る可能性を探ってみます。
 行動、行動、行動、とにかく、自分の人生の出会いが足りないのでしょうから、気を入れて、できるだけ自分と遠いところにいる人とのチャンスをつかんでいく。出会いを起爆剤に、現在の手駒を組み合わせて、生産性マックスとなるような道を見出し、経済的自由を得て、さらに空間的自由と時間的自由を確保し、自分を最大限生かす人生に変えていくことで、他人のことを羨んだり自分のこれまでの選択を否定するような心を乗り越えていきたい、どこに在ってもこのことを強く願い、処を得るところまで、それこそ必死に行動していきたいと思います。

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