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力でねじ伏せても心は変わらない

 このところ、僕が巻き込まれつつある、仕事上の問題の究明をするにつけ、感じるのは、人の口に戸を立てるのは非常に難しいし、心を力で変えることは絶対にできない、ということです。

 当たり前のことですが、その場しのぎ、時間のない中で物事を進めようとすると、この当然のことを、わかってはいても、何か、組織人としての振る舞い、あるいは社会人としての大勢の中での慎み、
といった外形的な心理抑制要因に期待して、まずは力関係を使い、勝負をつけたうえで、そうした心理的圧迫を加えつつ、添え物程度に相手に寄り添い、それで相手の立場を尊重したことにする、そうした手じまいをしがちです。

 手じまいをした方、つまりは実質的な勝者の側は、うまく抑え込んだ、組織論理的にも、社会通念からしても、当然の帰結だったのに、余計なことに手間をかけさせられた、程度に考えがちですが、
力で抑え込まれた方は、かえって内部のマグマの圧が高まっている状態で、組織や社会的な力関係があるから、表面的には平静を装ってますが、どこかで反撃の機会を、虎視眈々と狙っているわけです。

 歴史を紐解いても、現代の国際政治をみても、力でねじ伏せた結果、事態は悪化するのが必然で、政治的なポジションでそうした選択をする為政者はそれで立場は守れても、巻き込まれる市井の人々は悲劇の連鎖の中で苦しむことになります。

 相手の思いを受け止め、納得はしなくても消化するところまではじっくりと話をすること、これは力関係にかかわらず、絶対必要です。

 特に相手の主張に理があるとき、その理をいったん、丁寧に対話を重ね、理解を求める努力を最後まで続け、相手がむしろ根負けするところまでお付き合いをしないと、後になって思わぬ暴発に巻き込まれて、受け身が取れない分、力のある側も相応に被害を被ることになります。

 ここから先、力でねじ伏せ続けても、面従腹背を深度化させるだけで、火元を残して周辺を消火しているようなものです。僕としては、当面の対処はしつつも、火元である人たちときちんと話をして、これまでの不信感を和らげるとともに、ある程度、消化するところまで、丁寧に話し合いを行いたいと思います。

 まあ、こうしたことは、事態がこじれてからやるのは、骨が折れるのですが、往々にしてあることで、後講釈で批判するのは簡単ですが、現実問題、みんな忙しいから、やってられない。今、やるしかないんですよね。
 

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