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名もなき手話通訳者の詩

通訳中の私は、私ではない感覚におちいる。 

大衆の前に立っている時も
偉い方の通訳をしている時も

私の視線には常に目の前にいる聴こえない人の表情と大衆とのギャップを見据えている。

手話通訳をしている時の私は
容れ物や扉のようなものだと思っている。

その容れ物を通すと手話は日本語に変換され、日本語は手話に変換される。

扉だったとしたら、その扉を通ると別の言語になって、新しい世界が見えて来る。そんな印象。

感情的、叙情的ではあるが、無機質でありたいとも思う。

一方で、個人的な感情は失われる。

偉い人から挨拶されても、笑顔で会釈をするが、感情が含まれていない。それだけ、集中している。

通訳中に心がないかと言われれば、そうでもない。伝えたいという気持ちは強く根底にある。

ただ、常にもう一段階上の思考がある。

話者の日本語を手話でどう伝えるか。
ろう難聴者の手話をどう日本語にするか。

それは、新鮮なネタを手に入れた料理人のように。どうサバクかを考えている。

こうみると、手話通訳はARTともいえる。
ひとつとして、同じ通訳がないからだ。

話者や話す内容、話し方、その場の雰囲気、ニュアンス、通訳現場は刻々と変化していて、その中で、通訳中に通訳者も成長する。

だから、手話通訳は面白い。手話通訳者にしか味わえない感覚。ほとんどの人は味わえない感覚なのだから、勿体ない。

この変態じみた感覚を分かってくれる人はいるだろうか。大衆に届く時があるのだろうか。

私は私の中の美学を追求する。
あなたの美学はなんだろう…

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