社民党はいつ失敗したのか

ちょっと長く政治ウオッチをしている人にとっては、わりと当たり前の内容になるとはおもうのだけれど、今、社民党消滅が現実的な日程に入っているぽいので、一応、私も長く政治ウオッチをしてきた一人として、節目のためにもまとめておきたい。キーワードは、土井たか子、小沢一郎、村山富市、そして福島瑞穂だ。もしかすると辻元清美についても語るべきなのかも知れないのだが、私はかの御仁についてあまりよく知らない。語り得ないことについては沈黙せよとウィトゲンシュタインは書いた。従って、辻元清美については触れない。

社民党の前身は社会党で、長い間、戦後日本の非自民として求心力を維持してきた。55年体制が確立されて以来、自民党が議席3分の2を獲得するのを防いできたのが社会党だと言っていいだろう。自民が280前後くらいの安定多数を得続けて来たなか、社会党は100前後で推移し、政権はとれないものの、無視できないだけの勢力を常に保ち、自民党が嫌いな人たちへの受け皿となっていた。社会党が存在しなければ、自民党はあっさりと憲法を改正していただろうから、今のような護憲対自主憲法という不毛な政治対立もなかっただろう。社会党が現実的な左翼・リベラルを堅持し続けたので、共産党は安心して極端な理想主義を打ち上げ続けることができたのだと言うこともできるだろう。自民党が資本家と地主の利益を代表し、社会党は労働者と弱者を守るために戦い続けて来た。読書が好きな人、映画が好きな人は素朴に弱い人の味方をすることに共感する人が多い。そういう人から見て、社会党は魅力的な政党だったはずだ。

社会党が特にその存在感を発揮したのが土井たか子の時代だったと私がここで述べて、異論を唱える人は少ないと思う。土井たか子は様々な意味でインパクトの強い存在だった。今ではそこまでではないが、当時、女性が党首になるというのは、凄いことだった。時代が変化しているということを彼女は自分自身によって証明していた。多くの人が憧れたし、今も、土井たか子を心の中の理想としてがんばっている人は多いはずだ。そして何よりも、参議院で自民党を過半数割れに追い込んだことは、その後の日本の政治史に強い影響を与え、今日もその影響下にあると言っていいだろう。以後、自民党は20年にわたり参議院の単独過半数を回復することはなかった。衆参のねじれは政治の意思決定を致命的に鈍らせることになった。そして自民党は公明党であれ、どこであれ、他党の協力を得なければ、政権を維持できない政党になった。今は衆参ともに自民が単独過半数を握っているが、それでも他党の選挙協力なしにそれは無し得ない。自民党はアメリカからの要求の受け皿として機能しているが、アメリカからの種々の要求に対し、「政権与党の理解を得るのが難しい」というカードを手にすることになった。自民党は必ず、公明党の同意を得なければならない。アメリカのためのポチ度数のようなものは下がった言えるだろう。功罪あるが、土井たか子がそれを成し遂げたという、そのメルクマール度、エポックメイキング度は忘れられることはないに違いない。

土井たか子が自民党を過半数割れに追い込んだ、あの参議委選挙の時、確かにいろいろなことが追い風になっていた。自民党は竹下時代に消費税を導入し、当時は3パーセントという、今の10パーセントに比べれば可愛いものだったが、日本人の消費の足を引っ張り、日本経済を頭打ちにし、日本人の生活水準を明白に押し下げる第一歩が踏み出されていた。更にリクルート事件で竹下退陣があり、自民党の評判は最悪だった。更に加えて、次の首相が宇野宗佑である。宇野氏自身にオーラがなかっただけではない。誰がどう見ても、竹下復権までのリリーフであり、多くの人が宇野宗佑首相に納得しているわけではなかった。小沢一郎が竹下と金丸信に首相になれと説得されて、何が何でも嫌だと断ったのは、宇野宗佑みたいになりたくなかったからだ。宇野氏はもはや亡くなられているので、故人のことを悪く言うことは気が進まない。死者への敬意は大事にしたいので、具体的なことは述べないが、これから参議院選挙という時期に、宇野氏個人のスキャンダルが持ち上がり、宇野氏が選挙演説に行くとかえって負けるから来ないでほしいくらいの感じになった。宇野氏は気の毒である。竹下時代のリクルート事件と消費税という負の遺産の責任を引き受けさせられ、且つ、スキャンダルにしても、まず間違いなく意図的な狙い撃ちだった。彼は引責辞任するためだけに首相になったようなものだ。まあ、そういうわけで、土井たか子は運が良かった。敵失があまりにも凄まじかった。土井たか子も他界している。故人に敬意を表すという意味で、やはり、その功績により光を当てたい。55年体制という、アメリカの軛みたいな構造を叩き壊す、その始まりみたいなのは、やはり土井たか子の功績なのだ。

参議院で過半数を割った自民党は慌てた。当時の感覚としては、うまく説明できないが経済は底なしに悪くなり始めていて、国民に説明できない、にもかかわらず次の選挙があるし、どこから何に手を付ければいいか分からない。というあたりだったに違いない。自民党は党内の改革を模索するようになったが、30年間単独政権を続けていたため、変革のダイナミズムを失っており、何を改革していいのか分かる人はいなかった。党内の慣習とか人間関係の壁はあまりに厚く、動かしがたかった。マスメディアは、自民党には自浄作用がないと書き立てた。宇野退陣の後、その中で、宇野の次に首相になった宮澤喜一は相当な人材だったと私は思っている。当時の日本にとって宮澤喜一がいたことは救いだった。功罪あるし、評価は半ばすると思うが、少なくとも住専に公金を入れれば日本経済は復活するとする彼の見立てはかなり正確だった。だが、やはりマスコミが騒いだ。マスコミはまだ、日本が衰亡へのがけっぷちを歩いていることに気づいていなかったのだ。このような不毛なすったもんだが続く中、テーゼとアンチテーゼをぶつけ合って、ジンテーゼ、アウフヘーベン!イエス、高須クリニック!みたいな男が日本の政治の世界にパラダイムシフトを起こした。小沢一郎である。一応、ことわっておくが、宮澤喜一も故人であるものの、歴史の評価に耐え得る人物であると私は思うので、手心を加えるようなことはしない。その方が、より、宮澤に敬意を払っていることになるだろう。で、小沢である。

小沢は宮澤喜一に難癖をつけて、社会党が出した宮澤喜一不信任決議案に賛成すると脅しをかけた。宮澤喜一はサンデープロジェクトに出演し、生放送で田原総一朗に対し政治改革を必ず実現すると約束させられてしまった。日本の政治は、明らかに悪い意味でマスメディアのポピュリズムに浸食されていた。政治改革という言葉は濫用され、何をどうすれば政治改革が実現したことになるのか、誰にもよく分からなかったが、議論は選挙制度改革に矮小化され、宮澤は選挙制度改革の法律を成立させると田原に約束したのである。この法案については、特別委員会が設けられたものの、自民党内にも反発は強かった。政治家は長い年月をかけて地元の票を耕し続ける。選挙制度が変更されれば、これまでの票田開発は場合によっては無に帰するかも知れず、次の選挙で勝てるかどうかの保障もない、みんな嫌がっていたのだろう。宮澤の知らないところでクーデターが進み、委員長が廃案を宣言することで、この選挙制度改革は立ち消えになった。宮澤は田原総一朗との約束を守れなかった、嘘をついたと喧伝され、小沢がそれに乗った。小沢はおもしろい男だし、戦略的思考は匹敵するもののいないくらいの幅の広さを見せるが、いざ実行するとなると、その戦術はせこい。宮澤の知らないところで起きた、どちらかと言えば宮澤も被害者みたいな現象を宮澤の責任だと触れて歩き、社会党と協力し、小沢は一機に全てを手に入れようと画策したわけだ。小沢は政界全てを丸ごと呑み込もうとしたし、一時的にはそのような状態になった。小沢が宮澤を脅していた時、小沢の入っていた竹下派では小沢につくかどうかで人心が揺れていた。小沢は宮澤を脅してはいたが、真実の敵は宇野の次に宮澤を首相に指名した竹下だった。竹下派の議員たちは、竹下に忠誠を誓うか、小沢と新時代を作るか、どちらの方が現実味があるのか、或いはお得かについて悩んでいた。役者は竹下の方が上だった。小沢は衆議院竹下派の半分くらいを抑えていたし、もっといけそうだったが、参議院竹下派まで手が回らなかった。小沢と竹下の間で、参議院には手を突っ込まないとする紳士協定が結ばれたと言われているが、結果としては竹下は参議院竹下派を丸々自分の陣営に引き込み、小沢を孤立させた。小沢と心中してもいいという議員だけが残った。それでも40人ぐらいいた。羽田孜もいたし、奥田敬和もいた。自民党はリクルートと先の参議院選挙で傷つきまくっていたから、小沢一郎に希望を託せると思った人はそれなりにいたのだ。

宮澤喜一に対する不信任決議案は、小沢一郎とその仲間が社会党についたことで可決し、宮澤は総辞職ではなく解散総選挙を選んだ。もし、宮澤が総辞職をしていれば小沢は自民党内に残り、羽田首班内閣を成立させようと動いただろう。だが、総辞職になってしまったために、小沢一派はすぐに旗幟鮮明にする必要があった。自民党の首相に不信任の投票をしておいて、自民党に残ったまま選挙戦は戦えない。小沢は新政党を作り、羽田が党首になった。新政党は躍進したが、細川の日本新党の方が凄かった。細川一人で始めた日本新党は三十人以上の議席を獲った。小沢・羽田・細川連合に公明党や社会党など、非自民・非共産が全て糾合され、自民党は衆議院での過半数を失った。もちろん、結党以来初めてのことだ。宮澤の名誉のために述べておくが、自民党は一議席増やしている。しかし小沢たちが抜けたので、過半数には全く届かなかった。宮澤は気の毒なのは、宮澤以外の要因で政権の運命が決まったことだ。政治制度改革法案は宮澤の知らないところで廃案になり、その責任は宮澤が負わされた。選挙では議席を増やしたのに、小沢たちが抜けたことで、敗戦の責任を問われた。宮澤は辞任し、河野洋平が総裁になった。もちろん、河野洋平は首相にはなれなかった。

非自民の議員たちを抱え込んだ小沢は、人心糾合の策として細川護熙を首相に選ぶことにした。羽田を選ぶことが筋だが、羽田は地獄の底まで小沢と行動をともにするしかない。半面、細川は三十人以上の議員を持つだけでなく、新党さきがけとも気脈を通じていた。彼らに自由に動かれるのは困る。なら、首相にしてしまおうというのが小沢の考えだ。この時、密かに恨みを抱いたのが社会党だっただろう。この段階で、自民を除けば社会党が最も大きな政党だったし、小沢とも協力関係を築いているのだ。なぜ、社会党の党首を首相に選ばないのか?との疑問は持ったはずだ。小沢は初めから社会党を相手にしていなかった。おそらく、本音では嫌いだったのだろう。細川連立内閣は、バラバラの複数の政党の集合体だったから、いつ潰れるとも知れぬ不安定な状態だった。小沢は統一会派を作ることで、この不安定な状態を解消しようとしていた。その目玉は自民党から渡辺美智雄を迎えるというもので、渡辺派議員の数が魅力だった。渡辺派を抱き込めば、社会党は必要ない。小沢が構想する統一会派には社会党は含まれていなかった。社会党議員は激高し、反発した。このころ、金銭スキャンダルで追い込まれ始めていた細川は予算を通していない段階で嫌になってしまい、首相の職を放り出した。小沢は羽田を次の首相にした。当時としては、他に駒がなかった。

羽田首班内閣が誕生したものの、この政権は足元から崩れようとしていた。羽田を支える政党の一つである社会党が仲間外れにされたことに憤慨して、小沢とたもとを分かとうとしていた。手打ちが模索され、社会党の要求を小沢は受け入れることにした。社会党はメンツの問題として羽田内閣を一旦総辞職させるよう要求した。このある種の詰め腹的儀式が行われれば、我々は一度は損ねた心境を回復し、気分よく小沢に協力する。というわけだ。羽田の総辞職は飽くまでも儀式だから、次の首班指名では、当然、羽田に投票すると社会党は約束した。しかし、話はこのようには進まなかった。

羽田辞任後に改めて行われた国会での首班指名はテレビでも生中継されたが、中継を見る日本人の多くが、何が起きているのか理解できなかったに違いない。自民党と社会党が協力し、自社連立で非羽田・小沢政権を作ろうとしていた。自民と社会が手を結べば、小沢は少数派だ。たった一日で、テレビの中継が行われている中、権謀術策が繰り広げられた。自社連立で社会党党首の村山富市が彼らの首相候補になった。テレビの前にいた市民は、こいつら本気か?と耳を疑った。つい先日まで、自民と社会とはあれほど激しく争い、罵りあい、不倶戴天の敵であるかのように批判し合っていたではないか。あれはやらせだったのか?政治はプロレスなのかと。小沢は自民党を切り崩すために、海部を起用した。もはやプロレスなのだから、何でもありなわけだ。中曽根は思想信条の問題として社会党党首に投票することはできないと記者会見した。社会党内部でも自民党と連立することによしとしない意見はあったようだが、赤松が「社会党の首相を誕生させよう」と説得し、村山富市が首班指名されることになった。海部や中曽根の離脱もあって、自民党からは村山指名しなかった議員もある程度いたが、秘密投票なので、はっきりとは誰がそうしたのかは分からない。海部は善戦したが、村山が勝った。日本中で、何が起きているのか分からない人が大勢いた。私もそうだ。

村山は自衛隊の行進にも出かけて行ったし、社会党本部の前にあった、消費税反対の看板は撤去された。阪神淡路大震災で後手後手に回ったことで、村山への批判は強まった。社会党に投票していた人たちの多くが、自民党の政策をそのまま受け入れる姿勢を示した社会党に再び投票するわけにはいかないと考え始めた。社会党の終焉は誰の目から見ても明らかだった。本当に社会党が終焉する前に手を打つ必要があった。細川護熙が「黒衣に徹する」と新党の立ち上げに動いていた。新しい政党は民主党だ。非自民・小沢抜きが細川の提唱していたもので、菅直人とか鳩山由紀夫とかが参加し、このまま社会党に残っていては生き残れないと、多くの社会党議員、たとえば赤松とかが民主党に飛び移り、生き延びた。社会党にとどまった人たちは、政党を社民党に変え、自民党とは手を切り、孤高の政党を目指せるかどうか、やれるだけやろうと決心したに違いない。私はこの段階で、社民党にとどまった人たちのことは、その志に於いて、見るべきものがあると思う。その中に福島瑞穂がいて、彼女は長く党首を務めた。

福島瑞穂は、原点に立ち返り、護憲を貫いた。だが党勢は回復しなかった。非自民に投票したい人の票が割れたことは大きいだろう。今思えば、福島瑞穂の時代に、もう一歩、ビジョンが見えることを有権者に語り掛けていれば、社民党はもうちょっとなんとかなったかもしれない。たとえば山本太郎は小沢一郎に拾い上げられて気づくと、日本で一番目立つ政治家になっている。たとえば山本太郎を社民党に引き込んでいれば、いろいろ違ったかも知れない。ただ、山本太郎は、社民党に入るより令和新選組の方がやりやすいと考えた。それくらい社民党は魅力がなかったのだろうか。福島瑞穂の時代は結構長かった。巻き返すための手段はいろいろあったのではないだろうか。気の毒である。

こんなに長くなるとは思わなかった。手が痛い。私は政治信条としては自由を強く支持するので、あまり社会党とか社民党とは相性は良くない。しかし、今、消滅しようとしているあの政党のことを考えた時、彼ら、彼女たちに、巻き返しのタイミングはなかったのだろうかというようなことを思うようになった。そして書いてみたら、そのタイミングが見えるだろうかと思ってはみたが、具体的に、こうすればよかったというのは見当たらなかった。社民党を悪く書くために書いたのではない。同情して書いた。ソ連の消滅とか、いろいろ社民党にとって追い風にならないことは続いた。小泉純一郎の時代があったのも、社民党にとっては不運だったかも知れない。小泉は最盛期には支持率90パーセント越えだったし、このような時に社民党が党勢回復するなど考えにくい。小沢の政党は自民には勝てなかったが、他の野党の議席を奪い続けていた。

ああ、これ以上長くなると、本当に私が倒れてしまうので、終わります。私は社民党への善意でこれを書いた。社民党の方々、支持者の方々にはご理解願いたい。

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