ホワットダニットの系譜としてのルース・レンデル(2)
この連載「 ホワットダニットの系譜としてのルース・レンデル」で最初に「乙女の悲劇」を取り上げたのはクリスティー後期のホワットダニット的な作品群やコリン・デクスターの超絶技巧と言われる独特のパズラーとこのウェクスフォード警部シリーズには強い関連があるのではないかと最初に感じたのがこの作品だったからだ。
ただ、初読の際にはあまり気にはならなかったが、そういう前提で再読してみると同種の傾向は最初期の「薔薇の殺意」(1964、デビュー作)、「死が二人を別つまで」(1967)にもすでに見て取ることができる。
「薔薇の殺意」はデビュー作だが、クリスティーの論考で「スタイルズの殺人」について述べた「デビュー作はすべてを含む」の言葉通りにここにもすでにルース・レンデルの作家性は強く刻印されている。
物語は平凡な主婦の失踪からはじまる。その遺体が発見されるまでの描写がすでにかなり長い(40ページ強)。やがて被害者の知人からの手紙から死亡動機につながると思われる謎の人物ドゥーンの存在が浮かび上がるが、それは全編の半分近くが経過してからのことだ。
ウェクスフォードとその部下のバーデンのコンビはそうした失踪や遺体の発見を契機にじりじりと事件の真相に迫っていく。こういう筋立てはコリン・デクスターの「ウッドストック行最終バス」(1975)、「キドリントンから消えた娘」(1977)といった作品との類似性を感じさせる。しかし、ウェクスフォードの捜査はあくまで堅実そのものである。モースのような突飛な発想の飛躍はなく、そこが日本の本格ミステリファンに「地味な作風」と見做され、デクスターほどの人気を得ることができなかった原因があるのかもしれない。
とはいえ、そうした途中の退屈さを乗り越えて物語を最後まで読み終えてみると読後の印象はかなり大きく違ってくる。この作品はクリスティーを連想させるような技巧を導入しているとともにクリスティーだったら絶対に書きはしないような犯人像をも提示しているからだ。新人のデビュー作としては極めて完成度の高いパズラーと言っていいだろう。
一方、次の「死が二人を別つまで」のあらすじは上記のようなものだ。牧師の息子の結婚相手の父親が過去の殺人事件で有罪、死刑になっていた。判決は冤罪であり、それが晴らされないと自分たちの結婚は成就できないと娘は考える。犯人の妻である娘の母親は「あなたの父親は殺人犯ではない」と娘に向かって確言する。牧師はこれに基づき、再調査のためにウェクスフォードの元を訪れる。
物語の冒頭の展開はクリスティーの「五匹の子豚」(1942)、 「象は忘れない」(1972)とほぼ同様。典型的な「過去」タイプのプロットである。
上記がクリスティー「五匹の子豚」「象は忘れない」のあらすじだが、読み比べてみてもこの3作品の冒頭の導入部がほとんど相似形を見せているのが分かるだろう。
もっとも実はこれはクリスティー作品をレンデルが模倣したというような単純なものではない。時系列で言えば発表順は「五匹の子豚」→「死が二人を別つまで」→「象は忘れない」となっているからだ。実際の両者の影響関係は実証が難しいが、少なくともクリスティーだけにとどまらずこの種のプロットが英国ミステリにおいてある程度一般的な流行となっていたということは言えそうだ。
もっともクリスティーの作品とレンデルの作品には大きな相違もある。それはクリスティーでは事件を捜査する探偵役がいずれもポワロなのに対して、「死が二人を別つまで」では事件の発生時に捜査を担当したウェクスフォードはあくまで脇役となっている。事件の再捜査を行うのは教区牧師のヘンリー・アーチェリーと結婚を予定していたその息子チャールズ・アーチェリーなのである。
いかにもクリスティーのことを予定調和などと批判したレンデルらしいのはこの探偵役の二人は決して単なる正義の体現者とは描かれないことだ。再捜査の動機からして、「息子を殺人者の娘と結婚させられないから、なんとか無罪だということにしたい」という牧師父子の極めて利己的な動機を隠すことなくレンデルは描き出している。その探偵手法も新聞記者の取材を装って、関係者を欺いて話を聞きだすなど詐術に近いものでお世辞にも捜査側のみに感情移入をしにくいように描かれている。これもレンデルらしいと言えるかもしれない。
薔薇の殺意 (角川文庫 赤 541-2 ウェクスフォード警部シリーズ)
「薔薇の殺意」
死が二人を別つまで ウェクスフォード警部シリーズ (創元推理文庫)
「死が二人を別つまで」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?