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オリガト・プラスティコ「カフカズ・ディック」@本多劇場

雪の降り積もる中、仕事に出かけた後、夜はオリガト・プラスティコ「カフカズ・ディック」(2001年1月27日)を見る。

 「カフカズ・ディック」はKERA流の評伝劇である。KERAらしくギャグは交えてあるが、意外にもこれは変化球というよりは直球で真摯にフランツ・カフカの生涯に迫った舞台であった。KERAは以前ナイロン100℃の初期作品で「SRAPSTICS」という無声映画時代のコメディアン、ロスコー・アーバックルの栄光と挫折を描いた評伝劇の傑作を書いたことがあるのだが今回の「カフカズ・ディック」はそれを思いださせる好舞台で、この人の才能の多彩さを再確認させられた。

 なんといってもこの芝居ではカフカを演じる小須田康人カフカを評価し、その真価を世間に認めさせようと孤軍奮闘したマックス・ブロートを演じた山崎一が素晴らしい。山崎一といえばやはりKERAと組んだ「カラフルメリーでオハヨ」での哀しくもおかしな演技が忘れ難いが今回のマックス・ブロートもそれに匹敵するような人間の哀しさを醸し出す印象深い人物像に作り上げた。小須田康人もこうしたどこか壊れた人間を演じた時の凄みはこの人だけのものでこの2人をキャスティングしたことがナイロン100℃の最近の公演と違うテイストをこの舞台に与えた。

 この芝居での小須田が面白いのは戯曲自体の構造がそうだということもあるのだが、カフカというのはこういう人間だったと演じてみせるというにではなくて、カフカを巡る3人の恋人(フェリーツェ、ミレナ、ドーラ)と妹オットラ、親友マックス・ブロートの関係を描いていくことで、「不在の中心」のようにカフカの謎めいた姿が浮かび上がってくることで、その「不在の中心」として存在するというところに小須田の俳優としての特異性が生かされているのではないかと思う。

 さらにカフカの生涯だけでなく、そこに入れ子状に「断食芸人」などカフカの作品の引用を挿入していくことで、ここでもやはり「不在の中心」としてのカフカが陰画として立ち現れるような仕掛けとなっている。普通の評伝劇というのはその典型と思われる井上ひさしの作品などを見てもらえば分かるように主人公の伝記的事実に沿って例えば「頭痛肩凝り樋口一葉」でいえば樋口一葉という人はこんな人だったんだよという作者の解釈のようなものが提示されるものだが、「カフカズ・ディック」ではそうではなく、作者はエピソードの断片から観客にその解釈をゆだねるような形を取っているのだ。

 オリガト・プラスティコはもう一方で東京乾電池の女優、広岡由里子の主宰するユニットであり、ここで広岡はカフカの恋人のフェリーツェを演じるだけでなく、早変わりで色々な役柄を演じ分けてみせてくれる。この人は竹内銃一郎によれば天才だというほど優れた女優ではあるが、ここでは自分のユニットでありながら主役にこだわるのではなく、子どもからおばさんまで喜々として演じているのがなんとも楽しい。

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