まえがみの影

雨のように栗の木に花あふれはじめ思春期みたいに夏がはじまる

汗ばんだあかんぼは桃に似た匂い 家族の留守に買う桃ひとつ

傘立てにねじこむ傘に音のない悲鳴のような手応えがある

スーパーのガラスすべてが結露してしばらく夏に囚われていた

飛びやすい言葉を追って熱のこもる玄関におろす買物袋

書かなかった手紙だけれど今日は君からの返事がとても読みたい

スプーンがカレーのふちに触れるときかすかにずれてしまう水際

枕からはみ出た羽毛いまさらの自由の前ですこし震える

今日は朝から機嫌がいいねと君が言う卵ふたつを片手で運べば

段ボールからつかみ出す常温のペットボトルみんなのっぺらぼう

顔にかかるまえがみの影 誰ひとり知らない街は明るすぎるね

反故にした原稿用紙のうらに書く 今日から使えるいいわけ十選

いつかこの涙も詠んでしまうのだと思えばたちまち霧散してゆく

私の敵はわたし、だなんて凛々しくも雄々しくもなく鏡の前で

よその家の洗濯物の匂いなど嗅ぎ分けてしまう夕暮れの鼻

咲きながら天を求めてゆくようなタチアオイ血のようににじむ朱

ゆうやけは熱そうですねあさやけは熱いでしょうか薄いまなぶた

落下する夢の途中で目が覚める うらのやまからしんしんと やみ

ストッキングは破れておわり人間は負けても多分この次がある

詠むことは生き甲斐ですと衒いなく言えれば楽になるね蜩

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