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京都に行ってきました

ども、リュウ・ライタです。突然ですが、京都に行っておりました。

住んでいる場所がひじょーに交通の便が悪くて、関西圏に行くのに乗り継ぎをしながらの京都。しかも、日帰りだから滞在時間は4時間あるかないか笑

でも、どうしても行きたかったんです。

どうしても行きたかったのは、僕が運営する模型情報ページにやってきた1通のメールがきっかけです。

そのメールには

「自分はお店を継いだけど、たたむつもりでいる。でも、なかなか踏ん切りが付かない。そこで、別の模型店さんの情報がほしい」

と、書かれていました。
見ず知らずの僕に連絡するのだから、よほど迷っているのだろうと思うと、居ても立っても居られなかったんです。

僕はその日に京都行きを決めて、店主さんの了解を得ることができました。そして、今日電車に揺られているわけです。

連絡をくれた人が本当に困っているかわからないし、僕が行って何かの助けになるかなんてわかりません。でも、そのメール自体が何らかのSOSであったことは、想像に難くないでしょう。

それに、ありがた迷惑だったとしても、自分が「そうしたい」と思って取った行動って、わりと後悔も間違いもなかったりするんですよね。へたに「相手のために」とか「お客様は神様」とか、「すべては〇〇のために」というのは、自分の行動原理を相手任せにしているようで、僕は好きじゃないです。

自分から行動するときは責任も考えるし、本気なら本気なだけ懸命に考える。自分の意見を持つって、そういことじゃないかなと僕は思ったりしています。

http://piano-tree.hatenablog.com/entry/2016/02/01/212558
「空気を読む人」が海外で評価されない、実はとても哲学的な理由 - piano-treeの日記

空気を読むとか読まないとか、もう割とどうでもいいと最近は思っています。この記事でも空気を読むことの重要性よりは、自己をはっきりさせて建設的に批判する精神の重要性が挙げられています。空気なんて読んでいたら、誰も萎縮して何もしないですよ。

僕が今、人間関係を構築する上で欠けているのは「リスペクト」やと思っています。先ほどの記事にもあるように、欧米人だからと言って好き勝手に喋るわけではないです。そんな人は世界中の嫌われ者です。

では、何が違うのかというと「リスペクト」の有無に僕は行き着きました。自分の意見を言うためには、相手を傷つける可能性と責任が付きまといます。そして、反論すればさらに反論意見が飛んできます。その反論をしっかり受け取るには、相手へのリスペクトなしには成立しないように思うのです。

僕の中の「空気を読め」というのは、「俺の意見でいいだろ」という強者からのプレッシャーにしか思えない部分もあります。「空気を読む」のと「自発的に礼節を尽くす」のは、全くの別ものですよ。

僕が京都で聞いた京都弁は、地元でもないのにひどく懐かしい響きでした。その言語には、「空気を読む」にはない日本独自の魅力があるのかもしれません。

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