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植木culture

今日は久々に連投です。このnoteでいろいろな動きもあるようですが、以前から過渡期が来ていたのは感じていたのでそこまで不思議さは感じておりません。来るべきして来たと思いますので。それはネットの特性を考えれば当然のような気もします。

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そもそも、ネットサイトは自分に合う場所に寄っていく傾向があります。それは別の記事でも触れたように、ネット世界は広いけれど「狭く深い」のがネットの特質だと思っています。

以前、何かの記事で見たのですが「ネットは亀の甲羅のようなものだ」みたいな記事がありました。ネットは隣り合っているようで、その一枚一枚の甲羅は別物になっていてお互いに干渉しません。ネットも同じで一枚一枚の記事やサイトに人は集まっても、結局はお互いに干渉しません。これではマス(大衆)となる意見を汲み取っているつもりでも、底流に流れる意見には全く足を突っ込んでいない状態と同じです。

新聞記事でも同じだと思いますが、今は信頼できる情報が希薄している感覚があります。そのため、どうしても亀の甲羅の一枚のように、自分が信用できる情報源に集まってしまうのかもしれません。これは戦前の日本が全体主義になってしまった反省なのかもしれませんが、それでは真の意味での「公共性」は生まれません。

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公共とは、僕たちが日常生活を送る上でのマスとの関わりです。簡単にいうと役所で扱っている内容がマスの部分と言ってもいいでしょう。僕たちはこの社会で生活する限り、生きている限り社会的動物です。無人島でひとりで暮らしている人でもない限り、僕たちは案外だれかの生産活動や社会をあてにして暮らしているものです。その社会のワセリンとなるのが、僕のイメージする公共です。

たとえば、ゴミ回収を効率よくやってくれるのは誰でしょうか。わざわざ税金の計算をしてくれるのはどこでしょうか。それは役場の人たちです。役場の人たちには、確かにロクでもない人もいますがそれは会社やフリーランスの人たちでも同じ。働きアリの中でも三割が働かないように、僕たち人間の三割も働かない人たちがいるもの。

この公共ですが、いわば社会的な総務を担っている場所といえます。色々と不満の槍玉に上げられることも多いですが、見えない場所で仕事をしているのも事実です。むしろ仕事というのは、見えないものこそ仕事のような気がします。僕だって表現したものがネット上の記事、またはゲームや舞台として華やかにみえるかもしれませんが地味で誰かに奨めたいと思う仕事ではないです。この公共に関わる仕事を行っている人たちがどう考えているかわかりませんが、仕事なんてそんなものだと思います。

公共の話に返りますが、この公共はワセリンであり接着剤であると思います。ものとものを繋げる接地面と言えるでしょう。その接地面が強固であればあるほど接着した物質は固くなります。さらに、その接地面が滑らかであればキレイな一枚の板になるでしょう。何があっても割れない固い板です。今の日本にそういった接着剤となる「公共」や、皆が抱く共通理念とする「日本」ってあるかなというと、それは皆無な気がします。

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少し前になりますが、こんな記事もありました。

「千葉県で若者が小屋で生活」http://www.asahi.com/articles/ASH496V8ZH49UDCB01R.html

僕が疑問に思ったのは、どうして働かないのかとかじゃなくて、この生活を選択する上で、どうして日本を離れなかったのかという点です。

渡航する手段がなかったのか、それともこの環境でも暮らせる日本に問題があるのか。それともこういった生活をするのも自由と許容すべきなのか。やはり日本からは離れたくなかったのか。

でも、少なくとも僕が思うのは、ネットで起こっているような現象が現実でも起こっているという恐怖です。まさに「亀の甲羅の一枚」の社会を作りだし、この日本という土地で暮らそうとしている感覚。今の日本社会の労働環境をすべて是として見ることもできませんが、非としてみることもできないのが現状です。ただ、こうした現象が日本で起こっていることに無関心になってしまっている。それこそが最も恐怖すべきことなのかもしれません。

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最近、この場所において小説を書くことには懐疑的な僕がいます。批評会を開いた張本人でもありますし。この環境が悪いとはいいません。それに、ここまで書いた理論でいくと「ならお前が出ていけ」というのがセオリーです。ネットとはそういう場所だと割り切っている部分もあるため、それに対して意を唱えたいわけではありません。やはりこうした記事を書き、一番リアクションがいいのはこのサイトだと思うのは正直なところで、嬉しいところでもあります。

ただ思うのは、「否定では何も解決しない」というところです。何かが上手くいかなかったからといってすぐに別のサイトに移ったり、止めてしまうのは最もナンセンスだと思います。だからといって何でも受け入れるつもりはありません。自分の振るいの目が粗くなってしまい、何でも受け入れて自分を見失うのも悲しいことだと思うからです。少しでも自分の受け皿が大きければ、それだけ他者を受け入れて自分を知ることにつながると思います。否定ばかりだと自分を作るための材料となる石もないまま、石から人間を削り出すようなものだと思います。

自分たちと違っていたり、間違っていたりする社会や世界に対して拳を上げることは大事なことです。ただその前に、自分たちがプレイヤーになることばかりを考えるのではなくて、何かの一部であることを認識してオーディエンスになり、周りにある世界を感知するのってとても大事な感覚だと思うんです。少しでも周りのことを知ることができれば、それが自然と公共や社会を形作っていくんだと思うんです。過去に日本が隣人を大事にしたように、そうした些細な社会から作っていくのが大事だと考えています。

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日本の文化は、植木のような文化だとよく言われます。盆栽や生け花がある国ですから、いいところを切っては張り付ける習慣があるんでしょう。それは国民性というか、風習だと思うんで仕方ないと思います。

ただ、今は他国の前例を参考した法律や習慣をコピペのように真似ている傾向が強い気がします。何かを試しては結果ばかり求め、結果が出るまで待つことができていない状態が続いているような気がします。その繰り返しによって、公共や日本という風土はいまやボロボロな状態。模型でいえばいじり過ぎて修正の利かないパーツみたいなものでしょうか。悪いものはすぐに変えないとダメだと思いますが、まるで風邪薬を飲んですぐに熱が下がるのを期待する子どものような国。それが僕の中での日本です。

僕は少なからず言葉を生業とする職に、幸運にもありつけています。ならば、その言葉を使って何かを変えることが少しでもできればと思うのが正直なところです。今では文章なんて何の価値があるのかわからない時代だからこそ、僕だけでも人との出会いを拒まず「生の声」を大事にしたいです。

少し前、小説の企画とか思いつきましたけど、それよりもおもしろいと思う企画は、このサイトを使っている人たちのインタビューの旅とかですかね。ここで小説を書くより、やる意義がありそうだと僕は思います。現実的でないかもしれないけど、やるならそれぐらいのことをやってみたいのが本音です。

おわり

~お詫び~
リンク切を把握しておりませんでした。申し訳ございません。新しいものを貼りましたので興味があればご覧ください。

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